東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う

■平成21年1月4日(日) 第15229号

=中島 伸男=

惟喬親王像(東近江市蛭谷町・帰雲庵蔵)―『永源寺町史』より転載―

◇東近江
 惟喬親王(これたかしんのう)は「木地師の祖」とされ、わが東近江市にとって忘れられない歴史上の人物である。親王は「悲運の皇子」であった。それゆえの伝承が東近江を発信地として、広く全国につたわった。

■運命の暗転
 惟喬親王は承和十一年(八四四)、第五十五代文徳天皇(もんとくてんのう)の長子として生まれた。幼いころから聡明で、父・天皇は親王をことのほか愛されていたという。親王が七歳のとき、弟宮・惟仁親王(これひとしんのう)が誕生された。この時点で惟喬親王の運命は暗転した。
 惟喬親王の母・静子は紀氏出身である。紀氏は由緒ある氏族であるが、政界では勢力がなかった。いっぽう、あらたに誕生した惟仁親王の母は、太政大臣・藤原良房の娘、明子である。良房は、外戚の地位を利用し誕生まもない惟仁親王への皇位継承を企てた。その結果、生後九ヶ月の惟仁親王が皇太子に定められた。
 天安二年(八五八)、文徳天皇崩御。良房の敷いたレール通りに皇太子・惟仁親王が即位、清和天皇となられた。

■風雅の世界に遊ぶ
 青年期の親王は、このような不運を文芸や狩猟など風雅の世界に遊ぶことで紛らわされた。
 『伊勢物語』には、親王が在原業平(ありはらのなりひら)とともに水無瀬(大阪府島本町)の離宮や、天野川に近い渚の院(枚方市)で鷹狩りを催された話が出ている。親王は狩猟もほどほどに酒宴をひらき、歌を詠んで愉しまれるのが常であった。親王と業平は姻戚関係にあり、おおいに気があったらしい。
 貞観十四年(八七二)七月、惟喬親王は病をえて出家、比叡山の麓・小野の里に隠棲し「小野宮」と呼ばれた。二十九歳であった。大原三千院に近い大原上野町(京都市左京区)や雲ヶ畑、大森東町(京都市北区)などが隠棲地とつたえられている。
 ある冬、業平が小野の里に親王を訪ねた。親王はいかにも寂しげにしておられた。業平は、「深い雪を踏み分けて参りましたが、このような所でわが君にお逢いしようとは思ってもみないことでした」との歌を残した(『伊勢物語』)。
 寛平九年(八九七)二月二十日、親王は五十四歳で亡くなられた。
 以上が史料で辿ることのできる親王の生涯である。
 平安王朝の華やかな表舞台から退き山深い里に隠棲、病没された悲運の親王は、やがて、木地の良材をもとめ山野を渡り歩いていた山の民により、「木地師の祖」として甦り篤い尊崇をうけることになった。


惟喬親王墓所(宮内庁治定・京都市左京区大原上野町)

■小椋谷の伝説
 愛知川最上流の小椋谷(「六ヶ畑」と呼ばれる君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所の地域。東近江市)では、戦国時代から木地師(きじし)が活動していたといわれる。
 木地師とは、山中の樹木を伐りだし轆轤(ろくろ)を使って木製の椀や盆など、日常生活品を作り出す職人である。適当な材木がなくなると、山から山へと良材をもとめ各地に移住した。その根元の地ともいうべき小椋谷に、惟喬親王伝説が芽生えたのは近世初頭のことである。
 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王は法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」

■愛知川沿岸の伝説
 びわ湖から愛知川沿いには、いまも数多くの親王伝説が残っている。
 都を逃れた惟喬親王は、琵琶湖の東の浜辺に上陸されたという。その地は「宮ヶ浜」(近江八幡市沖島町)と呼ばれるようになった。宮ヶ浜から一山越えた若宮神社(近江八幡市白王町)には惟喬親王が祀られ、「この地で手芸や細工を教えられた」との伝説をもつ。
 八木神社(愛荘町宮後)には、親王が旅の途中に立ち寄り奉納されたという神社の御染筆の額と馬の鞍がつたわっている。この地に杉苗八本を植えられたので「八木神社」とよぶようになったともいう。
  建部北町・小林家では「年末の慌ただしいとき親王がお泊まりになり正月準備ができなかった。いまも門松など正月飾りをしない習わしがつづいている」という。
 池田町にはつぎのような伝説がある。「親王が愛知川を渡ろうとして難儀しておられた。これを見た池田の村人たちが親王を背負い対岸にお渡しした。そのとき、川の瀬から雁が飛び立った。これをご覧になった親王は自分を助けてくれた村人たちに『雁瀬』の姓を与えられた。」
 妹町・密谷家には、当家で親王が弁当を使われたとの伝説がある。箸を地面に突き立てられたところ、椿の木に育ったという。
 上中野町・八幡神社では、親王が植えられた松を村人が「霊松」として崇め、これが神社のおこりであるとつたえる。
 親王は、小椋谷に入る前に川のほとりに祭殿をもうけしばらくご滞留になった。歳苗神社(永源寺山上町)には、「親王の祭殿の場が神社創祀の起こり」との社伝がある。
 長寿寺(池之脇町)には、近年まで親王駒繋ぎの松があった。
 政所町は、小椋太政大臣実秀(藤原実秀)の居所であったことから「政所」と呼ばれるようになったとつたえ、同町の八幡神社には親王木像や親王塚が現存する。
 このほか、日枝神社(黄和田町)は親王によって創祀されたとし、春日神社(杠葉尾町)の社伝にも親王が参詣された旨が記されている。

■大君ヶ畑、笹路、山女原の伝説
 多賀町大君ヶ畑にも、惟喬親王隠棲の伝説がある。大君ヶ畑は、かつて「王子ヶ畑」ともいい、氏神の白山神社には親王ご自作という木地椀がつたわる。多賀町大杉には親王の馬駈馬場・的場・駒繋ぎ石などがのこり、河内の中村・藤本の両家は親王家臣の末裔であるともつたえている。
 甲賀市山内町笹路(そそろ)集落にも、惟喬親王の伝説がのこっている。年の暮れ、藤原氏の追っ手から逃がれてこられた親王を匿ったため正月準備ができず、いらい笹路では門松などの正月飾りをしないのだという。
 笹路の奥、山女原(あけんばら)集落には、筒井姓を名乗る数戸だけでお祀りをする「惟喬法親王社」がある。筒井家の先祖は惟喬親王家臣の末裔で、小椋谷から移り住み、かつては木地職を生業にしていたという。


大皇器祖神社(おおきみきじそじんじゃ)(東近江市君ヶ畑町)

■京都大原の惟喬親王伝説

 大原三千院(京都市左京区)にちかい小野山の麓に、惟喬親王墓と小野御霊社がひっそり佇んでいる。小野御霊社由緒や地元・大原の古文書につたわる親王伝承は、およそつぎのとおりである。
 「弟君・惟仁親王が清和天皇として即位された翌貞観元年(八五九)、親王は御年十六歳で白馬に乗り都の御殿を去り東に向かわれた。藤原(小椋)実秀・堀川中納言らがお供をし、下八木・春日神社を経て蛭谷・君ヶ畑に御所をさだめられた。小椋谷に閑居されること九年、轆轤の技術を地元の民に教えておられたが、貞観九年(八六七)に親王は鈴鹿・小椋谷から大原の地に宮居を遷された。その後、出家され素覚と称え、元慶三年(八九七)に京北・岩屋畑(現・京都市北区雲ヶ畑町)に移られた。親王はこの地でご発病、法華経をとなえつつ薨去された。ご遺言で亡骸は大原に戻り御殿裏に葬られ五輪塔が建てられた。小椋太政大臣実秀と堀川中納言の二人は、親王の二十三回忌をつとめたのち親王のご事績を守護するため小椋谷にもどった。その他の従者は苗字を久保と改め、大原で杓子や木椀をつくる業を受けついだ。」

■京北・雲ヶ畑と 大森東の伝説
 京北・雲ヶ畑集落の最奥には惟喬神社が祀られ、つぎのような親王伝説をもつ。
 「親王は乳母の招きで岩屋畑(現・雲ヶ畑町)の地に来られた。出家後は耕雲入道ととなえられ、耕雲殿をいとなまれた。それが現在の高雲寺で、親王が書写された大般若経最初の一巻がつたわっている。親王は間もなく病をえて、余命少ないと観念された。そして、『この地は内裏の上流であり墓所とするには失礼である。山向こうに移りたい』とおっしゃった。村人たちと別れを惜しみつつ、岩屋山を越え東河内(京都市北区大森東町)に向かわれた。」
 大森東町にもつぎの話がつたわっている。
 「岩屋畑から東河内(大森東町)に到着された惟喬親王は、庵室でご休息になり『ああ、安楽やな』とおっしゃった。それで、庵室は安楽寺(現存)と名付けられた。ご養生もかなわず、親王は元慶三年(八七九)二月に亡くなられた。この訃報は鈴鹿・小椋谷にも届けられ小椋実秀・堀川中納言らが涙ながらに東河内に集まった。そして、東河内で葬送の儀を執り行い、ご遺体は大原・御殿の裏山に埋葬することになった。」

■三重県と奈良県の伝説
 三重県度会郡大紀町崎には、親王をご祭神とし崎集落の小倉氏だけを氏子とする大皇(だいこう)神社がある。
 「親王は京の小野郷にいることを憚り、家臣を連れ近江・小椋谷に移られた。その後、良材をもとめ鈴鹿・治田峠を越え員弁郡を経て当地に来られた。親王は当地にて宮居を営まれていたが、病を得て京に戻られお亡くなりになった。その後、家臣の一人、小椋助之丞がこの地に移住、木地職を営むとともに親王のご分霊をお祀りした。これが大皇神社で、小椋助之丞の子孫が小倉氏を名乗った。」
 吉野の山々に囲まれた奈良県吉野郡川上村高原(たかはら)にも親王伝説がある。
 「藤原氏の追っ手を避け、親王は吉野山中の川上村高原(たかはら)まで逃れてこられた。その後、近江・小椋谷に移られ九年を過ごされたが、ふたたび高原に戻り薨去された。高原に残る木地ヶ森の地名は祖先が木地職を営んでいた名残であり、親王の使われた『御井戸』や腰を掛けられた『公方石』が現存、お墓の上に祀られたという現・氏神神社のご祭神は惟喬親王である。」

■全国版の大型情報
 轆轤を使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたという。また、惟喬親王の諸国行脚伝説を立証することは、不可能である。
 惟喬親王を木地師の祖とする伝説は、蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門により近世初頭に初めて語られたものらしい。しかし、悲運の皇子、親王への民衆の同情は、伝説・伝承を歴史的事実とする認識を生み信仰にまで高めた。「親王伝説」はまた、全国の木地師に誇りを与え、小椋谷を「わがふるさと」とする強力な木地師グループの絆を形成する原動力ともなった。惟喬親王伝説こそは、東近江から発信された「超大型情報」であり、「歴史的遺産」であるといっても過言ではない。

(八日市郷土文化研究会長)


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