滋賀報知新聞(ニュース)平成18年1月5日(木)第14302号

◆湖南・守山市◆
高大一貫教育で
21世紀担う国際人に!
立命館守山高校が今春、開校
= 大学の学びと連動したカリキュラム =

◆東近江・東近江市◆
自律する地域のまちづくり
要望団体からの脱皮
清水・小脇街づくり委員会
=行政区割りを越えた住民本意の協働=


◆東近江・東近江市◆
以登はなぜ男を刺したのか
明治初年の「布施騒動」をさぐる
=中島 伸男=


◆東近江・近江八幡市◆
開館へボランティア魂
安土町指定文化財「旧伊庭家住宅」
「一日館長」有志が活動継続
=4月の一般公開に情熱燃やす=


◆東近江・安土町◆
ロマン沸騰
=幻の安土城=


◆東近江・日野町◆
近江牛のブランド力高める!
県畜産技術振興センター
3つの研究でおいしさ解明へ
=滋賀のこだわり=



高大一貫教育で

21世紀担う国際人に!

立命館守山高校が今春、開校
= 大学の学びと連動したカリキュラム =

▲新キャンパスのイメージ
◆湖南・守山市◆

 学校法人立命館(川本八郎理事長)は今年四月、守山市勝部(来春から新キャンパスへ移転)に同法人で四番目の附属高校「立命館守山高校」を開校する。附属高校のメリットを活かし、大学受験のための勉強でなく、大学・大学院の学びと連動した高大一貫のカリキュラムが特徴。同校設置準備室は「文理融合の教育・研究の蓄積を教育に活かし、高大七年間を通じて二十一世紀の社会を担う国際人を育成したい」としている。

 立命館守山高校は男女共学で、全日制普通科、一学年二百四十人を予定している。入試は、推選と一般を実施し、市内四中学に対しては特別推薦枠を各校二人設けている。

 初年度は守山市立守山女子高校校舎で開校するが、二年目からは平安女学院大学びわ湖守山キャンパス跡地へ移転する。新キャンパスでは、附属中学校の来春開校を構想している。

 進級の流れとしては、一年生で基礎教育を受け、二年生で専門性を高めたい分野を探り、三年生では進学する学部を絞り込み、大学基礎科目の学びを先取りする。卒業後は、立命館大学(草津市、京都市)、もしくは立命館アジア太平洋大学(別府市)へ進む。

 カリキュラムの特徴は、文系・理系両方の知識・技能を幅広く身につける文理融合型を掲げ、教育目標として▽サイエンス教育の徹底▽英語・国語教育の重視▽幅広い教養と自立心の育成│の三分野を重視する。

 「サイエンス教育」では、従来の理系・文系の枠組みを超えて、すべての生徒を対象にハイレベルな理数教育を展開する。具体的には、立命館大学や地元企業と連携しながら、第一線の研究やものづくりに触れ、理数系分野の論理的思考力や行動力を身につける。

 「英語・国語教育」については、大学受験のための「読み書き英語」だけでなく、国際社会で「使える」英語をマスターする。大学の外国語教育のノウハウを活かし、高度な英語運用能力の習得、異文化理解のための教育を行なう。

 「幅広い教養と自立心を育む教育」に関しては、パソコンへの習熟などIT社会で不可欠な情報処理能力のほか、地元・滋賀県の自然や文化、歴史への理解、文・社・理系の幅広い教養を身につける。

 このほか、中等教育・大学教育研究の実践拠点として、(仮称)科学技術教育研究センターを新キャンパスに設置する計画を進めている。高校・大学の教員が一体となって、▽二十一世紀に活躍する生徒の育成▽中等教育における科学技術教育方法の研究▽地元学校への出張授業や産業界との連携など地域連携----をテーマに共同研究することにしている。


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自律する地域のまちづくり

要望団体からの脱皮

清水・小脇街づくり委員会
=行政区割りを越えた住民本意の協働=

▲水害対策に地域の川を視察する委員会
◆東近江・東近江市◆

 新しい組織のまちづくりや地域づくりが、市町村合併を機に各地で積極的に進められている。旧市町で培われてきた生活文化を受け継ぎ、新しい時代に向けて住民が誇りを持てる行政と協動の取り組みである。

 地域住民が自ら誇りが持ててる地域づくりや誰もが望む住み良いまちづくりとは、どういう取り組みのことなのか。まちづくりを進める事業資金が潤沢でない中で、住民でできる知恵をどのように生み出そうとしているのだろうか。

 元旦に能登川町と蒲生町が編入合併した新・東近江市が誕生し、昨年二月に産声をあげた東近江市より一回り大きな市になった。

 合併して市域が拡大すると、身近だった行政と住民との距離が広がり、住民の声が市政に反映されにくくなり、その結果、合併前の行政サービスの低下を招くだけでなく、それぞれの地域の課題の解決に行政の目が行き届かなくなるのではないかという不安がある。

 その一方で、市では少子高齢化をはじめとする社会基盤の急激な進展に伴う多様な行政サービスに対応するだけでなく、合併した住民が誇りと希望が持てる市政施策が求められる。

 この対応策の一つとして市は、住民と行政が共有する行政課題を一緒に考え、それぞれの地域に似合った対応や問題の解決、また、次代を担う後世のために住み良い地域社会づくりを目指した「まちつぐり協議会」の設置を進めている。 しかし、行政主導で立ち上がったまちづくり組織は、住民側が行政に頼りがちになる傾向が強いうえ、自治会長を軸とした組織形態になるため、自治会長の任期一年間の組織活動に終わってしまう色彩が濃い。

 人々が長く暮らす地域には、地域の経緯を熟知した人々が、長期的に取り組んでいくことが必要な課題も少なくない。

 市が進める旧町や公民館単位のまちづくり協議会でなく、同協議会の枠を越えた住民が共有している生活圏域を重視したまちづくり組織がある。

▲箕作山ハイキングコースでの休憩小屋づくり
 小脇町と清水町でつくる「清水・小脇街づくり委員会」が立ち上がったのは平成十三年一月。両町の中心部には「筏川」と昔に水利組合が組織された「中野大川」が流れ、両河川とも大雨時には、上流の清水町が洪水被害に見舞われ、下流の小脇町では清水町から出される家庭排水の浄化問題など、両町の住民が共有する二つの川が抱えている積年の課題がある。同委員会は、この課題に協働して取り組もうとの話し合いが煮詰まったのがきっかけだった。

 こうした生活基盤の課題解決は、行政との協議が長年に及ぶことから、一年任期の自治会長組織ではなく、継続して取り組める委員会を構成自治会の協力を得て地域に発足させた。単なる行政への要望団体ではなく、行政と対等な関係でまちづくりが進められる住民団体を目指している。

 同委員会は現在、両町十一の自治会長と同経験者、地元選出市議が加わった輪に徐々に地域の有志らも参画した四十人程度が活動している。

 同委員会は、身近な川の問題を共通項として発足したが、昔から春祭など太郎坊宮の神事も一緒に継承してきた親しい間柄であることや箕作山の自然を共有するなど、地域の歴史文化を共に作り上げてきた隣町であることから、地域が抱えている問題の解決と共に住民主体のまちづくりを協力して取り組むことになった。

 月一回、定期的な会合の場を持ち、事業の立案と実施、新しいまちづくり事業の検討など、議論を重ねている。一昨年からは箕作山のハイキングコースづくりに着手。コース沿道の山肌にサクラを植樹したり、コース一帯の整備、都市部の人の参加を呼びかけたハイキングイベントのサポート、また、地元住民に活動を広く知ってもらう広報誌の発行も始めた。昨秋には、山中の沿道に、かつてマツタケ小屋を再現した休憩所の設置を行い、参加者から好評を得る実績も積み上げた。

 住民の手でやれることからまちづくりにと取り組み始めた同委員会にも、活動メンバーの人材確保や効果的なPR方法、活動資金の調達、両地区のまちづくり協議会との連携など、今後の課題もあるが、なによりも住民主体の活動で地域に自治力をつけていく取り組みにしていきたいとしている。


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以登はなぜ男を刺したのか

明治初年の「布施騒動」をさぐる

=中島 伸男=

▲松林柏円の講談本「今常磐布施譚」の表紙(布施こなさん蔵)
◆東近江・東近江市◆

 徳川幕府から明治新政府へと、時代が大きく動くなか、旧最上藩領上大森村(東近江市上大森町)で、藩の武芸師範が刺殺される事件があった。
 犯人が逮捕されたのは事件の一年後、明治五年十一月であった。「急死というが、怪しい」との密告が大津の聴訴課(現在の県警本部)に届いたためである。何よりも世間の人々に衝撃を与えたのは、逮捕された犯人が布施以登(ふせいと)という旧最上藩家臣の妻であったことだ。なぜ、彼女は男を刺したのか。残された資料をもとに、当時、全国ニュースにもなった「布施騒動」の経過を追ってみよう。
 

 ■以登の生い立ち

 何もなければ、平穏な生涯を送っていたはずの以登の生い立ちから。
 以登は文政九年(一八二六)一月三日、水口藩士族の山県家に生まれた。幼いころから厳格な父母の教えのもとに読書・手習いにはげみ、成長するにつれ歌舞・音曲はもとより歌道・漢学の素養を身につけた。容姿が美しく気性のしっかりした評判の女性で、水口藩主に引見されたことも何度かあったという。
 弘化二年(一八四五)、二十歳のとき彼女は上大森村に屋敷を構える布施内蔵太友稱(ふせくらたともかな
のもとに嫁いできた。内蔵太は最上藩代官役をつとめていた。
 以登は夫・内蔵太に甲斐々々しく使え世間もうらやむ仲睦まじい間柄で、二人は一男四女(二女は早世)をもうけて幸せな家庭を営んでいた。

■夫・内蔵太の割腹

 ところが文久二年のある日、夫・内蔵太が割腹自殺した。原因は、最上藩江戸屋敷から大森の本陣に移ってきた宮田忠左衛門(みやたちゅうざえもん)一派との抗争であった。当時、全国各藩は尊皇(そんのう攘夷じょうい)か佐幕(さばく)(徳川幕府維持派)かで大揺れに揺れていた。五千石の小藩・最上藩でも事情は同じである。藩論は二つに分かれ、内蔵太は尊皇を主張し宮田忠左衛門は佐幕をとなえていた。
 内蔵太は真っ正直で融通性にとぼしく、いっぽう宮田は弁舌にたけ主君の最上駿河守義連(もがみするがのかみよしつら)の機嫌をとることにも巧であった。宮田は藩の主流を佐幕派でまとめたうえ、内蔵太の仕事ぶりにもさまざまな中傷・攻撃をおこなった。このため、内蔵太は藩主から譴責を受けることがしばしばであったという。
 その悔しさを内蔵太はときに妻・以登に漏らすこともあったが、ついに精神的に耐えきれず割腹自殺したのである。内蔵太はこのとき口に書状をくわえていたとの話もある。何かを訴えたかったのであろうが、書状の内容はうやむやのままとなった。
 以登の悲嘆はことばに尽くせなかった。菩提寺である養源寺に夫の亡骸を葬り供養をつづけながら、いっぽうでいつかは宮田忠左衛門を夫の敵として討つことを心に誓っていた。

▲講談本の挿し絵(梅堂国政画)
■武芸師範・丹野の登場

 時代は変わり、徳川慶喜が大政を奉還する。一時は佐幕に傾いた最上藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは官軍として戦った。しかし、藩内の佐幕派で、かつ内蔵太を死に至らしめた宮田は、なおも巧に藩主の庇護を受けていた。
 布施家では長男・初太郎が家督をつぐとともに、藩に新設された明道館(みょうどうかん)で学術・武芸を学ぶことになった。明道館武芸師範は丹野与惣右衛門(たんのよそえもん)といい、性格は粗暴であるが「腕は確か」と近隣に知れ渡った男である。以登は、その丹野に初太郎の剣術指南のため、出稽古を依頼した。初太郎が立派な剣の使い手となって、藩政の寄生虫であり夫の敵でもある宮田忠左衛門を、見事に討ち果たしてくれることを願っていたのである。

■丹野、宮田を討つ

 初太郎の武芸師範として布施家に出入りするようになった丹野与惣右衛門は、あろうことか初太郎の母、以登に横恋慕するようになった。このころ以登は四十歳を過ぎたばかりで、容姿はもちろん武家育ちだけあって立ち居振る舞いも美しい。丹野は何かと以登にまとわりつくが、彼女はこれを柳に風と受け流す。
 ところが、ある夜のことである。酒に酔った丹野が以登の寝間に忍び込み、彼女に刃をつきつけて、「意のままにならねば斬り殺す」と関係を迫った。一瞬、茫然となった以登であったが、ここで彼女は一計を案じた。丹野に「夫の敵である宮田忠左衛門を討ってくれたならば」と話を持ち出したのである。まさか、そこまでは丹野も実行すまいと思ったのであろう。しかし、丹野は約束を果たした。   
 明治元年九月十七日夜、所用先の八日市から帰ってくる宮田忠左衛門を大森地先の墓地付近で待ち伏せ、一刀のもとに切り捨てたのである。

▲獄中での手芸品(布施こなさん蔵)
■丹野の暴虐と死

 その後の丹野は、以登に対し傍若無人に振る舞うようになった。初太郎の剣道指南というのは名目だけで、酒を求め以登に関係を迫る。以登が絶交を言い渡しても、密約を楯にますます乱暴をかさねる。ついには押し込み亭主のように振る舞い、気に入らないと以登を打ち据えるありさま。事情を知らない近隣や噂をきいた親元・親戚から忠告・中傷がつづいた。
 初太郎はまだ十二歳である。彼の成長を見届けるまでは、以登は死んでも死にきれない。窮地に追い込まれた以登には、丹野への殺意が芽生えた。とはいえ、武芸師範の丹野に女手で立ち向かえるはずがない。
 以登はそのころ、初太郎を親元の水口・山県家に預け、儒者として著名な中村栗園(なかむらりえん)の下で学ばせている。初太郎だけは何とかして丹野から切り離したかったのであろう。
 そして、事件の夜がきた。
 明治四年十月二十六日夜遅く、知人宅で濁り酒の振る舞いを受けた丹野が、泥酔し以登の家に転がり込んできた。以登は彼を介抱し布団を敷いて寝かせつけた。夜が更ける。丹野のいびきのほかには物音ひとつしない。以登は思いを決し、懐中の短刀を抜いて丹野を刺した。

■以登、逮捕さる

 翌朝、彼女は、丹野が急死したと周囲に伝え早々に葬儀を出した。当時は、寺が承知すればすぐに埋葬ができた。
 しかし、誰いうとなく「丹野は殺されたらしい」との噂が広まった。そして、事件から一年経った五年十一月、県の探索係が八日市に出張し以登を逮捕した。同時に拷問がはじまった。「女手ひとつで武芸師範の丹野を殺せるわけがない。他に犯人がいるか、あるいは手助けしたものがあるはずだ」というのである。水口にいた初太郎も召喚された。このとき、十五歳。彼の驚きは想像にあまりある。初太郎共犯の疑いは晴れたが、その後、彼は故郷の家に留まり母の無事を神仏に祈りつづけた。

■獄中の以登

 逮捕から三年間の未決期間をへて、明治七年一月、以登の身柄は東京上等裁判所に移された。その後も、共犯者などの吟味がつづいた。布施家と姻戚関係にあり旧最上藩家老職の鳥越準左衛門は東京に半年余も拘留され尋問を受けている。
 すべての審理が終わり、東京上等裁判所の判決がくだったのは明治八年八月三十日であった。判決文の写しが残っている。事件の経過を述べたあと、最後につぎのように記している。
 「丹野与惣右衛門の熟睡を窺い刺殺する科、斬罪に処すべきところ、元来、与惣右衛門の所業、狂暴無頼著明なるを以て、情状を酌量し本罪に二等を減じて懲役三年を申しつける」
▲以登が獄中でつくった和歌(布施こなさん蔵)
 死刑を覚悟していた以登は、この判決を聞いてまさか夢ではないかと疑った。そして、ふたたび初太郎にも会えるのかと嬉し泣きに泣き伏し、裁判官を伏し拝んだという。
 獄中での以登は、模範囚と讃えられた。看守を助け、勧善懲悪の講話をしたり手習いや手芸を教えたりしたりして、他の女囚に慕われた。瓦のかけらを硯の代わりに、消し炭を墨の代わりにして和歌をしたためた。こよりをご飯粒で紙に貼り付けた和歌も残っている。
 「子を思ふ心のやみにふみ迷ひ道を忘れし身こそ恥ずかし」
 「世の中に憂きもつらきもありぬれど我が身にまさる憂きはあらじな」
 以登は、生まれつき手先が器用で、獄中で彼女がつくった手芸品は明治十年の内国勧業博覧会に出品され褒状を受けた。以登はまさに、「女子受刑者教育の先駆者」なのであった。

■以登、初太郎のその後

 明治十二年八月、以登は満期放免となった。初太郎や水口に住む実兄・山県順をはじめ親戚・縁者が上京し彼女を迎えた。上大森村の自宅に帰ってきた以登は、自身の不都合を詫びひたすら謹慎をつづけた。
 間もなくこの実話は東京郵便報知新聞紙上に連載され、明治十三年には人気講談師・松林伯円(しょうりんはくえん)が、「滋賀県美談」『今常磐布施譚(いまときわふせものがたり)』と題して三部作の講談本にまとめた。伯円は、以登を、わが子義経を守るため清盛に身を委ねた常磐(ときわ)に見立てたのである。さらに演劇の題材としても取り上げられ各地で興業が行われた。以登を訪ね、上大森村までやってくる人もあった。しかし、以登はひたすら罪を詫びるばかりで、事件については何も語らなかったという。
 以登は請われて明治十四年から高木村・遷喬学校(せんきょうがっこう)の教員として子弟の教育に従事したが、健康を損ない、三年で退職した。その後は自宅で近隣の子女に書道・手芸を教えつつ、もっぱら仏道に帰依し念仏三昧の日々を送った。明治四十年二月三日、八十二歳の天寿をまっとうした。辞世がある。
 「前の世のむくひの罪はおもけれど他力の教へ聞くぞ嬉しき」
 いっぽう初太郎は師範学校にすすみ、教職の道についた。鳥越家の長女を妻に迎え友政と名前をあらためた。友政は、市原・日野・中野の各小学校で教鞭をとり、明治四十二年十一月に新設なった玉緒小学校の初代校長に就任した。大正七年没、享年六十二歳。
 いまでは、以登・初太郎(友政)二人がたどった数奇な運命を記憶する人も少なくなった。母と子は、夫であり父である内蔵太とともに、上大森町の養源寺境内でひっそりと眠っている。


(注)
(1)布施家は、大森城主・布施淡路守の子孫と伝える。平成十七年九月、沢田幸雄さん(東近江市瓜生津町)から、布施家の家系図を伝えておられる布施こなさん(東近江市建部堺町)を紹介して頂き、共に訪問した。そのとき、こなさんから「布施いと子伝記」や彼女の手芸品などを拝見することができた。
(2)同「伝記」は、明治前後の貞女烈婦の事績集が編纂されるに当たり、求めに応じて綴られたもので、明治四十三年ころ地元の人により作成されたと推定される。今回の文章は、主としてこの「布施いと子伝記」にもとづいている。布施こなさんは、「丹野を刺したのは他の人間。以登さんがその罪を被った」と伝え聞いておられる。
(2)以登の名前は、諸本に「伊登」「糸」「糸子」「いと子」などと書かれているが、東京上等裁判所判決書(写)の記載にもとづき、「以登」とした。
(3)布施以登をめぐる事件は、松林伯円の講談本のほか、長谷川伸『日本敵討ち異相』・横瀬夜雨『近世毒婦伝』にも紹介されている。『近世毒婦伝』では、以登は貞女でなく毒婦になっている。上記の二作は脚色が多い。『近江蒲生郡志』第八巻「人物史」、および『大森のむかし』「最上騒動(布施物語)」(梅本茂左衛門さん)でも紹介されている。
(3)上大森町には、布施家の屋敷跡が残っている。また、大森町との境に「布施友政顕彰碑」がある。


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開館へボランティア魂

安土町指定文化財「旧伊庭家住宅」

「一日館長」有志が活動継続
=4月の一般公開に情熱燃やす=

▲ヴォーリズ設計による「旧伊庭家住宅」
◆東近江・近江八幡◆

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一八八〇―一九六四)の設計で、住友家第二代総理事を務めた伊庭貞剛(一八四七―一九二六)が建てた安土町指定有形文化財「旧伊庭家住宅」(郷土館)を、安土町が昨年九月から十二月まで三か月の期間限定で、土・日・祝祭日に限って一般公開した。公募で集まったボランティア「一日館長」の中には仲間意識も生まれ、有志は、「このまま終わるのはさびしい」と自分達で組織を立ち上げ、同館の保存・公開と魅力発信に向けた活動の、新たなスタートを切った。


▲一般公開中にはお茶会なども開催された
 一般公開にあたって町では、同館の管理・清掃・案内などを行う「一日館長」を公募したところ、「社会や自分のために何かボランティアをしたかった」「伊庭氏・ヴォーリズに興味がある」「ヴォーリズの建物の中が見られる」「ヴォーリズの家で一日過ごせる」などそれぞれの思いで、町内外から三十人が集まった。

 担当の日が割り当てられていたので、普段はなかなかみんなが寄って顔を会わせることもなかったが、この家の魅力に魅せられ、愛着がますます湧いてくるのと同時に、互いの仲間意識も自然発生的に生まれてきた。

 開館時間外に、同家で働いていた人から話を聞いて新しい事実を発見したり、他の施設に見学にも行き、情報交換や共通認識をもてるまでに。

 「人が住んでいないと家が傷む」「隣接する保育園の子ども達にとっても、すてきな家になってほしい」「このまま閉めるのはしのびない」など、閉館に伴う荒廃を心配する。

▲関係者から話を聞いた勉強会
 一般公開中の入館者は六百十一人を数えた。中には、かつてこの家に住んでいたという人や、伊庭家ゆかりの人の姿もあった。

 「今回の経験を生かして、何か自分達にできることがある」という強い思いから、新年度からの活動の継続、一般公開再開、情報発信といった新たな展開などを目指して、思いが一つになり、夢をふくらませる。

 今月から、掃除を兼ねてみんなで月に一回程度集まり、今後のことについて話し合うことにしている。まずは、四月から一般公開を再開させる予定だ。

【旧伊庭家住宅】安土町小中一九一。木造三階建て。戦後まもなく人手に渡り、昭和五十四年に町が買い取り保育園用地になる予定だったが、寄付などに寄り修復保存、同五十五年に町文化財指定。イギリス民家風ハーフティンバー、和風数寄屋造り、建材のナグリ仕上げなど和洋折衷の特徴。


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ロマン沸騰

=幻の安土城=

▲幻の安土城への夢は広がる(安土城天主信長の館で展示されている天主部分と安土山)
◆東近江・安土町◆

 琵琶湖を望む安土山に、その荘厳な輝きを放ったであろう安土城。完成から三年後に起きた本能寺の変(一五八二年)で織田信長は倒れ、五層七重の豪華絢爛たる天守閣をもつ安土城も焼失してしまう。信長の天下統一の夢は豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれたが、安土城は廃城となり、山は荒廃して行くばかりに。

 天下無双の安土城について知る決定的な手がかりはなく、今、往時をしのばせるのは、山頂にある天守台跡の礎石(昭和十五年調査発掘)や、穴太積みの石垣などがあるのみ。

 唯一の手がかりである、伊東マンショら四人の天正少年使節(一五八二―九〇年)がローマ法王グレゴリオ十三世に謁見(一五八五年)し、献上した狩野永徳の作といわれる屏風絵「安土城之図」も、法王の死後に行方不明になったままだ。

 安土町はこの屏風絵を探すための「幻の屏風絵探索プロジェクト」として、昨年十一月に、津村孝司町長らが現ローマ法王ベネディクト十六世に四百二十年ぶりの謁見を果たし、探索への協力を要請するとともに、関係施設などをめぐり、いくつかの収穫を持ち帰った。

 ベールに包まれた安土城の謎は、歴史家や歴史愛好家、建築家など専門家だけの関心事ではなく、安土町民や滋賀県民はもちろん、日本国民のロマンでもある。

 今回の訪伊で築くことができた関係を途絶えさせないためにも、町では、現地の専門家を含めた調査隊を結成し、派遣するため、県や国の関係機関にも支援を求めるなど、準備を進めて行く方針だ。

 平成元年から続けられている県による発掘・資料調査と修景整備事業は、二十年で完了する。安土城の一番知りたい部分を解明することなく終わってしまう可能性もある。

 安土山の下に立ち、山上を見上げれば、約二十四メートルの石垣の上に建つ三十メートルはあったとされる、五層七重(地上六階、地下一階)の天守閣が、まばゆいばかりにそびえ建っていたのだろう。

▲「幻の屏風絵探索プロジェクト」の成果を報告する津村町長
14日 新春夢談議で町長報告


 一月十四日午後一時半から文芸セミナリヨで「新春夢談議」(町・町教委主催、町国際文化交流協会共催)が開かれる。

一部では、津村町長が屏風絵探索プロジェクトの経緯と結果報告を資料や写真などを使って行う。二部は、歴史作家の井沢元彦氏とともに、信長がバリニャーニ神父に贈った屏風絵「安土城之図」、屏風絵に描かれたもの、まちづくりへの活用方法になどについて、対談を行う。入場無料。

 


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近江牛のブランド力高める!

県畜産技術振興センター
3つの研究でおいしさ解明へ

=滋賀のこだわり=

▲肉質の違いを調べて近江牛のおいしさを解明中(県畜産技術振興センターの牛舎で)
◆東近江・日野町◆

 牛海綿状脳症(BSE)問題や飼育履歴偽装事件など、消費者の牛肉離れが懸念される中、日野町山本にある滋賀県畜産技術振興センターは、日本三大銘柄牛の一つ“近江牛”のおいしさを追求する研究に取り組んでいる。

●最高峰の味に科学的根拠


 脂の質がよく肉質がきめ細やかと全国でも名の知れた近江牛だが、百種類以上存在するという他府県のブラ> 全県

▲昔の配合に近い形で再現した濃厚飼料
●とろける度合い増す


 すると、発育状況や全国共通の枝肉格付など生産性で差異はなかったが、格付の評価対象となるロース部分を比較した科学的肉質分析で違いが表れた。

 具体的には、筋肉内の脂肪で、伝統飼料の方が風味に影響を及ぼすといわれている不飽和脂肪酸が多く、脂肪の融点(熱で固体が液体になる温度)が二度低くなった。融点が低いほど体温で溶けやすいため、舌の上でとろける度合いも増し、二度変化すると一般の人でもその違いに気付くという。また、たんぱく質が分解されて旨味を生み出すアミノ酸の増加を確認。東京農業大学と共同で、食味に関する「官能検査」も行っている。

 兵庫・鹿児島県産の血統が異なる二種類の牛に伝統飼料を与えた場合や、同じ血統の牛に伝統飼料を与え三十六カ月と二十七カ月間肥育し出荷した場合の肉質の違いについても研究中だ。

 同センター・青木義和主査(獣医師)は、「(肉質には)遺伝も大きく影響するが、環境要因も重要。客観的数値を積み重ねていくことが、近江牛らしさを引き出すヒントとなり、ブランド価値向上につながっていくと考える」と、歴史・伝統を確固たるものへと高める。さらに、飼育期間が最も長い場所が産地となるため、飼料に配合する穀類を滋賀県産作物の副産物を利用するこだわりも追求し、コスト面も考慮して生産農家が導入できる方法を模索する。

 


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