平成19年1月6日(土)第14612号

◆大津・大津市◆
“オペラ・デビュー”をびわ湖ホールで!
〜びわ湖ホール声楽アンサンブルの歌〜
=びわ湖ホールへの誘い=

◆東近江・東近江市◆
1年の健康は東近江市から
元旦1000人が力走
=45回東近江元旦健康マラソン=


◆東近江・東近江市◆
加藤菊太夫組
「女形の道中」
=野々宮神社で奉納=


◆東近江・東近江市◆
赤穂浪士・奥田孫太夫と
東近江の接点をさぐる
=中島 伸男=


◆東近江・東近江市◆
百聞を一見にする
「ふるさと絵図」
=大塚町で制作中=


“オペラ・デビュー”をびわ湖ホールで!
〜びわ湖ホール声楽アンサンブルの歌〜

=びわ湖ホールへの誘い=



▲「『コジ・ファン・トゥッテ』より」
◆大津・大津市◆

 オペラは料金も高く、敷居が高いと思っていませんか。

 「一度観てみたいけれど難しそう。」「最初に何を観たらいいのかわからない。」といった方々にも楽しめるオペラ公演が大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで上演されます。

 オペラは、文芸や美術、演劇、音楽などのいろいろな芸術をミックスした総合舞台芸術ですので、いろいろな楽しみ方ができます。今回は、モーツァルトが作曲した『フィガロの結婚』という有名な喜劇オペラに、ストーリーや時代背景などの解説を加え、イタリア語(日本語字幕付き)で上演されます。オペラを初めて観る人にもわかりやすく楽しんでいただけるでしょう。

 出演は、専属の声楽家(歌手)である“びわ湖ホール声楽アンサンブル”です。声楽アンサンブルは、びわ湖ホール独自の創造活動の核として設立され、ソリストとしての実力と、アンサンブル・合唱の中核にもなれるバランスのとれた声楽家により構成されており、日本初の公共ホール専属声楽家集団として注目を集めています。

 この公演が上演される中ホールは、客席と舞台とが近く、オペラを間近で体験するのに最適です。それぞれの歌手の声や表情を観たり、指揮者のアクションを観ることができます。
▲「前回の公演より」

 多くのオペラファンや出演者などから高く評価されているびわ湖ホールのすばらしい空間で、“オペラ・デビュー”してみませんか。

 びわ湖ホール声楽アンサンブルによるオペラへの招待
 モーツァルト作曲 歌劇『フィガロの結婚』
 ―イタリア語上演・日本語字幕付―

●日時/2007年3月21日(水・祝)午後二時開演

●会場/滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 中ホール(大津市打出浜)
http://www.biwako-hall.or.jp/

●料金/一般二千円、青少年(25歳未満)千円
※往復はがきで事前に申込んでください。一月下旬にチケットの購入について案内します。
※六歳未満のお子様は入場できません。

●申込方法/往復はがきに、@氏名、A住所、B電話番号、C希望人数(一般・青少年の内訳 ※一通につき四名まで)を明記して、下記申込先へ。
※申込みが多数の場合は抽選となります。

●申込締切/1月15日(月)【当日消印有効】

●申込先・お問合せ先/びわ湖ホール事業部『フィガロの結婚』係
〒520-0806 大津市打出浜15-1
(077-523-7152)※電話で申込みはできません。


全県大津湖南・甲賀東近江・湖東湖北・湖西中央政界社説

今週の運勢おくやみ・お誕生・ご結婚今日の首長交通取締リンク
TOP インデックスへ


1年の健康は東近江市から

元旦1000人が力走

=45回東近江元旦健康マラソン=



▲一斉にスタートするランナーたち(布引運動公園体育館前)
◆東近江・東近江市◆

 近江路を駆け抜ける新春恒例の「第四十五回東近江元旦健康マラソン大会」が一日、東近江市今堀町の布引運動公園体育館一帯で開かれ、県内外から参加した九百六十二人が走り初めを楽しんだ。

 「一年の健康は元旦にあり」と、昭和三十八年から旧八日市市が開いてきた新春スポーツイベントを、さらに大きく東近江市と市体育協会が主催する大会で、県内外からエントリーした九百六十二人が年齢や距離、男女別など十二部門に分かれて健脚を披露。雪化粧の美しい鈴鹿の山々を見ながら一歩一歩を駆け抜け、沿道に集まった人々の応援を受けていた。また、第二十五回全国都道府県対抗女子駅伝に出場する県の選抜チーム(十人)が特別招待され、一緒にさわやかな汗を流した。

 ジョギングコースに参加した泉野尚子さん(41、近江八幡市)は「毎年参加していますが、娘が小学一年生になり、今年初めて家族四人揃って走ることができうれしく思います」と話し、初チャレンジした珠穂さん(7)も「楽しく走ることができた」と笑顔で話していた。

 各部門の優勝者は次のみなさん(敬称略)。

 【10キロ】一般男子四十歳以上 岡田夏来(MRC)▽同三十九歳以下 森義記(立命館大)▽高校男子 川井大介(比叡山高2年)▽一般・高校女子 森妃里(八幡商高3年)

 【5キロ】一般・高校男子 北川雄二郎(爆走会2001)▽一般女子 池村直子(東近江消防)▽高校・中学女子 堀井直子▽中学生男子 福本翔一郎(日野中3年)

 【2・6キロ】中学女子 奥井ひかり(日野中1年)▽小学男子 小沢直人(貴生川小4年)▽小学女子 中村彩(浅井クラブ)


全県大津湖南・甲賀東近江・湖東湖北・湖西中央政界社説

今週の運勢おくやみ・お誕生・ご結婚今日の首長交通取締リンク
TOP インデックスへ


加藤菊太夫組

「女形の道中」

=野々宮神社で奉納=



▲奉納された伊勢太神楽の神髄「女形の道中」
◆東近江・東近江市◆

 江戸時代から伊勢大神楽・加藤菊太夫組による元旦の獅子舞奉納が伝統的に続けられてきた野々宮神社(東近江市立八日市図書館前)で年明け早々、除夜の鐘とともに伊勢太神楽の神髄「女形(おやま)の道中」が奉納された。

 このほか、獅子三頭による「神来舞(しぐるま)」と「四方の舞」も奉納され、大かがり火や万灯に映し出された獅子の舞う姿は、幽玄そのものの世界を醸し出し、初もうでに訪れた参拝客ら約五百人の目を奪うと同時に、今年一年の家内安全と隆昌を祈願した。 

 獅子舞の奉納が終わって見物客らは、われ先に自分の頭を獅子の歯でかんでもらい、一年の健康を願った。また、本殿では、宗家岡田流大正琴「琴愛(ことよし)会」による演奏が奉納され、新春一番の野々宮神社はにぎわい、新しい門出を祝い合った。


全県大津湖南・甲賀東近江・湖東湖北・湖西中央政界社説

今週の運勢おくやみ・お誕生・ご結婚今日の首長交通取締リンク
TOP インデックスへ


赤穂浪士・奥田孫太夫と
東近江の接点をさぐる

=中島 伸男=



▲供養塔(市内中羽田町・奥田家が帰依していた洞泉寺跡に建立されている)
◆東近江・東近江市◆

■孫太夫と貞右衛門

 奥田孫太夫重盛は、赤穂四十七士の一人であり、長太刀の使い手としてその名をよく知られている。赤穂城主・浅野内匠頭長矩の馬廻役・武具奉行をつとめ、江戸詰で百五十石を給されていた。馬廻役というのは主君の警護役であるから、彼が武芸に秀でるとともに内匠頭の信頼を得ていたことを伺わせる。

 孫太夫には男子がなく、一人娘に養子を迎えていた。貞右衛門行高という。貞右衛門は野洲郡比留田村(現・野洲市)の近松家出身で、赤穂藩の加東郡勘定方をつとめていた。貞右衛門には清十郎という二歳になったばかりの子どもがいたが、貞右衛門も討ち入りに参加している。切腹したときは、二十六歳であった。

■いくつかの「なぜ」

 孫太夫・貞右衛門、二人の供養塔が東近江市中羽田町の雪野山山麓にある。供養塔は杉木立に囲まれており、地元の人以外にはあまりその存在が知られていない。

 供養塔の表には「浅野内匠頭家頼四十六義士・奥田孫太夫重盛、同貞右衛門行高」「元禄十六癸未二月四日」と刻まれている。裏側には、供養塔の建立年代と建立者の名前が彫られている。風化してすこし分かりにくいが、「寛延三年十月二十五日」「奥田元長・奥田元統」とよみとれる。

 供養塔の表面に刻まれた元禄十六年(一七〇三)二月四日は、赤穂浪士たちが切腹した日である。「家頼(家来)四十六義士」とあるのは、討ち入り後に姿を消した寺坂吉右衛門が、当時、義士としては数えられていなかったためである。供養塔が建立された寛延三年(一七五一)は、浪士たちの討ち入りから四十九年もあとのことである。

 なぜ、奥田孫太夫・貞右衛門の供養塔が中羽田にあるのだろうか。四十九年も経ってから、孫太夫たちの供養塔が建てられたのはなぜか。そもそも、建立者の「奥田元長・元統」と孫太夫たちとはどのような関係にあるのだろう。

■刃傷事件の「なぜ」

 赤穂浪士討ち入りの原因となった「松の廊下刃傷事件」は、元禄十四年(一七〇一)三月十四日に起こった。新暦になおすと四月中〜下旬にあたる。内匠頭は即日切腹を命ぜられ、日をおかず浅野家は断絶、城地没収などの措置がとられた。

 刃傷事件の原因はさまざまに取り沙汰されている。「賄賂説」「塩田怨恨説」「病気発作説」などである。しかし、いずれも確たる根拠はない。

 内匠頭が、「この間の遺恨、覚えたるか」と叫びながら上野介に切り掛かったことは確かである。だが、彼は「遺恨」の内容については何一つ語らないまま切腹してしまった。そのため、内匠頭乱心の真相は、いまもって不明のままである。

▲奥田孫太夫の錦絵 いままさに長太刀を抜こうとしている孫太夫が描かれている。(大石神社資料館)
■古傷で吉良と判明

 刃傷事件から一年十ヶ月。

 元禄十五年(一七〇二)十二月十四日に、赤穂浪士の吉良邸討ち入りが決行された。旧暦の十二月十四日は、新暦になおすと今年の場合二月一日にあたる。

 浪士たちが突入したのは寅の刻(午前四時)であった。

 一行は火消し装束のスタイル。夜半に列を組んで歩いていても、怪しまれないためであった。吉良邸につくと、彼らは二十四名の表門隊と二十三名の裏門隊の二手に分かれた。ともに、「屋内組」と「屋外組」に分けられていた。屋内組は居宅内に突入し、邪魔を排除しつつ上野介の首級をあげることが目的である。屋外組は、敷地内の長屋で警護のために寝泊まりをしていた用心棒たちと対決するグループである。抵抗した吉良方の十七名が斬り殺され、三十数名に深手を負わせた。じっさいの戦闘は三十分ほどでおわった。

 目指すは、上野介。全員で探索にあたったが、見つからない。茶室脇の炭小屋が見落とされていたことが分かり、戸を打ち破った。中から二人の男が飛び出してきたので切り伏せ、さらに奥に残る一人を間十次郎が槍で突いた。男はなおも脇差で切り掛かってきたが、武林唯七が一刀で男を斬り倒した。息絶えた男の額と背中を改めると古傷があり、上野介に間違いないと判明し首をはねた。

 明け六つ(午前六時)まえ。浪士たちは、めでたく本懐を遂げた。約二時間の仇討ち劇であった。奥田孫太夫は表門から突入、屋内組の一員として吉良方の猛者たちと切り結び、長太刀をふるって活躍した。貞右衛門は裏門隊・屋外組に属し、義父同様に長太刀で闘った。

■大当たり、仮名手本忠臣蔵

 将軍綱吉も浪士の処置にはおおいに困ったらしい。しかし、儒学者・荻生徂徠の主張がとおって、最終的に浪士たちには「切腹」が命ぜられた。赤穂事件への対応についての批判を恐れた幕府は、事件を題材にした芝居などいっさいを禁止した。

 事件から、四十七年。寛延元年(一七四八)に、大坂・竹本座で竹田出雲による「仮名手本忠臣蔵」が、四ヶ月連続上演という大当たりをとった。ようやく赤穂浪士たちの義挙を讃えることの出来る世相となったのである。寛延三年(一七五一)には、赤穂・花岳寺境内に四十六士の墓碑がつくられた。同じ年に、近江湖東の一角、中羽田村にも孫太夫・貞右衛門父子の供養塔が建立されたのである。

▲泉岳寺(浅野家菩提所。内匠頭長矩をはじめ本懐をとげた赤穂四十七士が眠る)
■二度の「お家断絶」

 では、供養塔建立者、奥田元長・元統と孫太夫とは、どのように繋がっているのだろうか。
 中羽田町・奥田武男さん宅に巻物になった「奥田家系図」が伝わっている。

 それによると、尾張・奥田村(現・稲沢市)の出身で奥田美作と称する人物が近江に出て佐々木六角氏に仕官、観音寺城下に屋敷をもった。江戸時代のはじめ、美作の孫、久右衛門が羽田郷に来住した。この久右衛門の二代あとに、孫太夫の墓碑を建立した奥田元長・元統の名前が記されている。元長は庄屋、元統は医者であったという。

 美作の三男孫太夫は、伊勢に出て鳥羽の内藤家に仕えた。その子・兵左衛門(のち、孫太夫重盛を名乗る)も内藤家の家臣となった。孫太夫十六歳のとき、主君・内藤和泉守忠勝の姉が赤穂・浅野家へ嫁ぐことになり、孫太夫は姫君の付け人を命ぜられて赤穂へきた。

 ところが延宝八年(一六八〇)、和泉守忠勝は芝・増上寺の法要で刃傷沙汰を起こした。内藤家はただちにお家断絶、孫太夫はやむなく赤穂にとどまり浅野家の家臣となった。はじめ仕えた内藤家がお家断絶、二度目の奉公先である浅野内匠頭長矩は、こんどは殿中で刃傷事件を起こし、またもやお家断絶である。孫太夫はよくよく主君運がわるかった。

■「医家」でつながる

 別表の家系図を見ると分かるように、奥田孫太夫と、供養塔建立者の奥田元長・元統とは、曾祖父の代でつながっている関係である。中羽田の元長が奥田家の本家筋で、鳥羽に出ていった孫太夫は傍系である。それほど近い間柄とはいえない。

 しかし、奥田孫太夫と奥田本家との間には、系図だけでは見えない関係があった。それは、孫太夫が比留田村・近松家から貞右衛門を養子として迎えているという事実である。

 近松家は、野洲郡内で代々、医師として知られた家系で、当時、赤穂・浅野家に御典医として仕えていた。いっぽう、中羽田の奥田家も医師を生業とする人物を輩出していた。孫太夫に貞右衛門を紹介したのは、医業で近松家と交流のあった奥田本家であったと思われる。孫太夫は貞右衛門を養子とするについて、中羽田の奥田本家を何度も訪れていた可能性はおおいにある。 

 供養塔が建立された寛延三年十月二十五日。それは、仮名手本忠臣蔵ブームの渦中であった。奥田元長・元統が、一族の中に赤穂義士をもっていることを大きな誇りとしており、それが供養塔建立の動機となったのであろう。

▲奥田孫太夫像 大石神社参道両側には赤穂四十七士の石像が並んでいる。孫太夫は長太刀を抜いて担いでいるポーズである。
■「切腹」を待つ間

 討ち入り後の浪士十七名を預かっていた細川家の老家臣・堀内伝右衛門の「覚書」に、切腹直前の孫太夫の逸話が記されている。

 切腹を待つ浪士たちのまえで、孫太夫は近くにいいた堀内伝右衛門にこう語りかけた。

 「伝右衛門殿、私は切腹の仕様を存ぜず候。いかが仕るものにて候や」

 伝右衛門は、まじめに答える。

 「我らもついに、切腹の様子を見申したることも御座なく候。三宝に小脇差を載せて出すように承り及び候。これを引き寄せ、肩衣に手をかけ…」
 二人の話を聞いていた富森助右衛門たち若手がいった。

 「さてさて、稽古などいらず。いかようにも苦しからず、ただ首を受け討たれるのが宜しかろうと存じ候」

 五十七歳にもなった孫太夫が、そのような切腹の作法を知らなかったはずはない。にもかかわらず、あえて「どのように切腹するのか」などと伝右衛門に声をかけた理由はなにか。おそらくそれは、切腹直前の張りつめた空気をやわらげるためのジョークであったと思われる。堀内伝右衛門がそれをまともに受け止めたので、思いがけずユーモラスな雰囲気がその場に漂った。そして、切腹の座に向かう若い浪士たちにも、こころのゆとりが生まれたのだった。

 孫太夫が、武芸一本槍の無骨者ではなく、気配りも十分にきいた人柄であったことを想像させる逸話である。

■清十郎の碑

 現在、赤穂城跡は国の史跡に指定され、大がかりな整備計画がすすめられている。当時の遺構としては、大石邸長屋門のみが現存する。

 大正元年、内蔵助の屋敷跡付近に大石神社が祀られた。神社参道両側には、四十七士の石像が立ち並んでいる。討ち入り満三百年の記念事業として平成十年に建立されたものである。奥田孫太夫の石像は、長太刀を肩に担いだ偉丈夫の姿である。寄進者の奥田良明氏は赤穂郡上郡町の出身で、代々、「奥田孫太夫の子孫」と聞かされてきたという。しかし、具体的な資料は何も残っていない。

 孫太夫の養子・貞右衛門に清十郎とよぶ幼児があったことは、さきに記した。

 東近江市平田駅前の奥田茂さんの庭に、「奥田清十郎の碑」が建てられている。碑文には、「清十郎はいったん江戸谷中の寺に預けられたが、幕府の追求をのがれるため父祖の地に近い西生来村に身を隠した。のちに当地の領主が彼を召して藩士とした。清十郎の屋敷は椿御殿とよばれ代々栄誉の家と称えられた」という趣旨の一文が刻まれている。一説に、遺児・清十郎は松平淡路守の家臣、仁尾官右衛門の養子となったとも伝えられているが、詳しいことは分からない。

 ともあれ、孫太夫の墓所や供養塔が、東京の泉岳寺と赤穂・花岳寺そして中羽田町以外にはないことや、貞右衛門の一子に関する伝承が中羽田の近くに伝存していることなどを勘案すると、奥田孫太夫と東近江との接点は意外に強く深かったといってよいのではなかろうか。


全県大津湖南・甲賀東近江・湖東湖北・湖西中央政界社説

今週の運勢おくやみ・お誕生・ご結婚今日の首長交通取締リンク
TOP インデックスへ


百聞を一見にする

「ふるさと絵図」

=大塚町で制作中=



▲上田さんが用意した地図を指差しながら昔の町並みを語る(あたらしや学問所で)
 昔の風景や姿、思い出を残し伝えていきたい―。東近江市大塚町で、昨年九月から「ふるさと絵図」作りが始まった。滋賀県立大学人間文化学部非常勤講師の上田洋平さんが考案した“地域の生活ものがたり絵”で、身体を使って同じ体験をしている「身識(みしき、上田さん造語)」を絵屏風に描き、地域に根付く知恵や歴史を発信する。

 ふるさと絵図の作成は、NPO法人蒲生野考現倶楽部と人と自然を考える会が、住民自身が地域資源や人材を見つめ直し、自活の道を追求する地元学を柱とした事業として企画したもの。

 高島市では絵図作りが活発で、東近江地域で本格的に始動したのは大塚町が初めて。身近な地域について一人ひとりが百科事典ほどの情報量を持つ大塚町老人会(安川善兵衞会長)有志約三十人が、主体的に取り組んでいる。

地域の思い出 残し伝えたい!


 百聞を一見にするふるさと図法は、まず、全戸対象のアンケート結果を基に、地域住民の体験や心に息づく思い出を集める聞き取り調査から始まる。上田さんが「孫たちに語るようなつもりで、みなさんの身識を教えてほしい」と呼び掛けると、集まった住民はせきを切ったように語り出した。

 土地改良前の田んぼやため池の様子、農作業・家事にとよく働いた子ども時代、丁稚奉公へ行き苦労したこと、当たり前だったもらい風呂の風習、一年を通じて行われる行事・祭りなど、一つの話題から幾通りものストーリーが紡ぎ出される。

 安川会長(75)は「話していると、時間の経つのを忘れてしまう」と微笑み、参加した住民も「道端で昔話をしていたら」と切り出し、自分たちのみぞ知る昔の暮らしぶりや記憶が役立つ喜びを感じ、いきいきとした表情で語る。

 昨年十二月十七日まで計四回にわたる聞き取り調査で、地域住民が語ったすべての話が「聞き書き集」にまとめられる。そして、今月からいよいよ絵図の制作へ。地域らしさを表現する構図を考え、絵図に盛り込むエピソードを選別し、住民自ら下絵を描く。今年中の完成を目指す。

 上田さんは「絵図は完成したら終わりではなく、活用法が重要」と強調し、絵の中に込められたストーリーを語る“絵解き”や地元の語り部に子どもたちが直接インタビューする“世代交流学習会”などを提案する。

 先輩たちの経験に耳を傾ける制作過程こそが、地元を見つめ直す絶好の機会となり、世代をつなぐ絵図の存在が地域の絆を深める大きな財産となる。滋賀県環境学習支援センターの井阪尚司所長は「大塚町は聞けば聞くほど奥深い地域で、生活史そのものが村や自然の仕組みを作り上げている」と語り、上田さんとともに同事業の各地への広がりを期待していた。 


全県大津湖南・甲賀東近江・湖東湖北・湖西中央政界社説

今週の運勢おくやみ・お誕生・ご結婚今日の首長交通取締リンク
TOP インデックスへ