<新春座談会>
この九日から、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(原作・脚本=田渕久美子氏)がスタートする。近江生まれの浅井三姉妹の末娘で徳川秀忠の正室になったお江(ごう)が主人公だが、豊臣秀吉の側室になった長女・お茶々(淀殿)、京極高次の正室になった次女・お初も含めた三姉妹が大活躍する。そこで歴史に造詣の深いみなさんにお集まり願い、戦国時代のりんとした近江の女性たちを現代的な視点でとらえ直しながら、大河ドラマをどう滋賀の観光などに生かしていくかを話し合ってもらった。 (司会・冨田正敏、文責・石川政実、写真・畑多喜男)
近江を制せよ
冨田 今年は、NHKの大河ドラマが五十回を迎え、滋賀県を舞台にした「江~姫たちの戦国~」が九日からスタートしますが、そもそも戦国時代の近江は、どのような位置にあったのでしょうか。
木村 滋賀県が舞台となるNHK大河ドラマが初めて登場したのは、井伊直弼を主人公にした「花の生涯」で、これが第一回目でした。その後も、「おんな太閤記」、「信長」、「功名が辻」などと続いていきますが、今回の「江~姫たちの戦国~」は、まさに近江発です。戦国の時代となると必ず近江が出てくる背景には、古代から地形的に東日本と西日本を結ぶ交通の要衝であったからです。それから、近江の国に隣接する武将たちが、京都の朝廷や幕府と絡みあっていましたから、近江が京都に入る東の玄関口に位置していたことです。その中で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人がこの近江を舞台に、京都を目指して行った。やはり戦国時代は、近江なくしては語ることができませんね。
冨田 浅井三姉妹の運命を変えることになったのは、信長の妹のお市と結婚した父親の浅井長政(注1)が、越前の朝倉義景と結んで信長に刃向かったことですが、この背景もうかがえますか。
八幡 日本は江戸時代になってから鎖国をして、世界の流れから切り離されていきますが、戦国時代は日本もルネサンスという世界の歴史の流れの中にありました。浅井家は元亀元年に、朝倉家と組んで信長と対決してから、三年あまりも抵抗しますが、これも世界史的な意味があります。ヨーロッパでも中央集権国家ができてくる中で、中世以来の自治都市が必死に抵抗したのと、非常によく似ています。自治組織は封建領主にとっても敵ですが、改革に対しても抵抗勢力になります。信長や秀吉は、日本の近代化のためには中央集権国家だと考え、石田三成(注2)に代表される多くの近江人がそれを支えた。一方、「いや、市民自治の方がいい」と抵抗した代表格が浅井家だったとも言えます。

お江の生涯 小谷城主・浅井長政と、織田信長の妹・お市の三女として生まれる。父・長政は信長に滅ぼされる。母のお市は柴田勝家と再婚するが、勝家は秀吉に敗れ、お市も自刃。三姉妹は秀吉にひきとられる。お江は佐治一成と結婚するが、離縁。その後、羽柴秀勝と再婚するが、秀勝は朝鮮で病死。三度目の結婚は、秀吉の天敵である徳川家康の子、秀忠(のちの第二代将軍)。やがて家康は、秀吉の側室である姉・淀殿やその子、秀頼ら豊臣家を滅ぼす。お江と秀忠は子宝に恵まれ、長男・家光は第三代将軍となる。 (写真は長浜市の小谷城跡)
木村/近江は天下人の玄関口
八幡/戦国時代はルネサンス
畑/お市は長政へ追慕の念
嘉田/化粧をしない素の滋賀を
冨田/関西広域連合の試金石
冨田 畑さんは、女性の立場から近江の戦国時代をどのように受け止められていますか。
畑 戦国時代は、女性も元気な時代だったと思います。例えば、秀吉と正室のねね夫婦、前田利家とまつ夫婦(注3)、それから山内一豊と千代夫婦(注4)。この三人の女性を見ても、ただ夫に従順であったというのではありません。NHK大河ドラマ「利家とまつ」で、利家が出陣していく時に、まつは利家が貯めたなめし皮の袋の中の金銀を利家に投げつける場面がありました。日ごろ、お金をためてばかりいる利家に対し、まつは「危急の場合は、お金を使って軍備を整えなさい」と態度で忠告するわけです。これは一例ですが、戦国時代の女性は、いざというときには、ビシっと自分の意見を持っていたのだと思います。
嘉田 木村さんのお話のように、近江なくして戦国はなかった、戦国なくして江戸時代はなかったと言えますね。それを社会制度的に見ると、三つのポイントがあります。一つは、戦国時代には、まだ土地の支配が必ずしも確定していなかったので、秀吉は石田三成に命じて検地を行って土地の面積を測り、税金を取る仕組みを確立したことです。同時に、水の権利も秩序化しました。江戸幕府二百六十五年の支配制度である、石高制度も含めた土地と水と人の制度をつくったのは、まさに石田三成です。二つ目は兵農分離です。農民は農民、武士は武士と身分制度を固定化しました。三つ目は、女性です。江戸時代になって、女性が家制度の中に取り込まれていく。そういう意味で、個性的な浅井三姉妹は、平安時代から中世へ変わる、最後の自由な女性のあがきでもあったと思います。
三姉妹の魅力
冨田 畑さんと八幡さんは、期せずして、お初を中心に三姉妹について書いておられますが、その魅力はなんでしょうか。
畑 三姉妹が、とりわけ関ヶ原の戦いの後、姉妹の仲が断絶したのを、必死になって、もとの絆(きずな)に戻す努力をしていることに強く惹かれます。三姉妹についての資料はあまり残されていませんが、例えば長浜市の知善院というお寺に、淀殿(お茶々)が京極高次(注5)に出した書状からも、姉妹の間柄を何とか戻したいという努力がうかがえます。また、大坂冬の陣では、お初が豊臣側に立って、徳川側と和議の話し合いを行っています。そして、大坂夏の陣では、落城ぎりぎりまで姉の淀殿に寄り添い、なんとか姉の命を助けようと説得するわけです。お江もまた、淀殿と秀頼が亡くなった翌年の五月七日、淀殿が浅井長政の菩提寺として建てた京都市東山区の養源院で、自らが施主となって法要を営んでいるんですよ。
八幡 嘉田さんのお話のように、日本の女性が家庭に縛られたのは、徳川家康が林羅山(注6)を取り立てて儒教が強くなってからです。家康にとっては、三姉妹が邪魔でした。家康は、前半生の不幸から女性不信が強かったので、三姉妹の絆の強さを恐れていたのだと思います。そのために、特に関ヶ原の戦いの後は、三姉妹が会うことをとことん邪魔するわけです。また家康が死んだあとも、家康の命を受けた春日局(注7)は、お江がかわいがっていた次男の徳川忠長を追い込んで自害させてしまうという、死んでもなお家康と三姉妹の闘いが続いたほどです。
木村 少し余談になりますが、今回のNHK大河ドラマで、三姉妹うち、お江が表に出てくるのは、呼び名から言ってもおもしろいですね。戦国時代の近江の国は、およそ彦根の天野川を境に「江北」と「江南」に分かれていました。「江北」はかつての京極家で、後に浅井氏がそれに取って替わるわけです。「江南」には六角義賢(注8)がいて浅井長政もずいぶんと苦労をさせられます。「江」と書いて、それが全国の人たちから「ごう」と読まれるのは、かつて近江商人が、大正時代まで江州商人と呼ばれていたからです。実はお江の名前には、「江与」とか、「小督」とか諸説があるわけですが、ドラマでは「江」という字が使われています。これは江戸の「江」でもあるわけで、滋賀県の宣伝には、誠にふさわしい名前ですね。
肖像一枚のお江
嘉田 三姉妹の中では、お茶々(淀殿)が最も有名で、お初も結構知られています。それなのに、お江はあまり一般的に知られてない。お江については、記録がほとんどないですよね。天皇家にまで血統を残し、三姉妹の中で最も存在感のあったお江がなぜ、このような扱いになったのでしょうか。
八幡 一番大きな理由は、お江の方が夫の秀忠より、先に死んでしまったからです。実際には影響力を行使したけれども、未亡人の場合のように本人の名前では、表に出てこない。お江の肖像画は、一枚、養源院にあるだけですから、なおさら印象が薄いわけです。春日局や家光に活躍の痕跡が抹消されたのかもしれません。
畑 八幡さんのお話のように、やはり春日局がお江の死後、その存在を片隅に追いやったのかもしれませんね。
木村 ただ、春日局は、近江には貢献してくれているんですよ(笑)。春日局が家光の代参として、御代参街道を通るというので、道中奉行が出てきて道を拡幅しました。もし春日局がこの御代参街道を通ってくれなかったら、道はもっと狭い道のままのはずです。
冨田 ところで、お市は小谷城落城の時に、浅井長政と一緒に自害しないで、再婚した柴田勝家(注9)のときには、福井県の北ノ庄城で自刃(じじん)するでしょ。あれはどうなのでしょうか。
畑 木之本の浄信寺のお坊さんが書いた『浅井三代記』によれば、お市は、最初は長政と一緒に自刃するつもりだったのに、長政が「姫たちを養育するために生き長らえてほしい」と説得したというのですね。そのとき三人の姫たちは、五歳と四歳と生後数か月ぐらいでしょうか。しかし次の北ノ庄落城のときは、お茶々は十五~十六歳、お初は十五歳、お江は十一歳で、当時としては、大人として自立していける年齢です。だから、お市は北ノ庄城落城のときには「もう自分はなすべきことを姫たちに伝えたので、長政のもとへゆきたい」という気持ちがあったのではないでしょうか。私は一貫して、お市は長政に追慕の念を抱いていたと思います。
八幡 小谷城落城の経緯から言うと、長政自身も、場合によってはお市と一緒に信長に投降しようと模索していたようですが、いろんな手違いがあって、結果としてお市だけが生き延びたとも考えられます。北ノ庄城落城のときは、柴田勝家が語り上手な老女に自害の一部始終を見届けさせてから、秀吉のところへ行かせていると宣教師フロイスの記録にあります。つまり「劇的な集団自決を後世に伝えたい」と。お市は、本当は死ぬつもりがなかったのに、集団自決に付き合わざるを得なかったのではないかと思いますね。
冨田 いま、歴女に代表されるように一種の歴史ブームですよね。大河ドラマもそうですが、歴史や文化と経済をどう両立させるか、これは古くて新しいテーマですが、そう言えば木村さんらは昨年十一月、「文化・経済フォーラム」の発起人会(発起人代表・木村氏)を行われましたね。
近江の誇り
木村 県が一昨年に施行された文化振興条例をきっかけに、県内の文化、経済、学術、行政を始め、多様な分野で活躍している人たちの交流をもっと促進しようと、「フォーラム」の発起人会を立ち上げました。大阪府が五、六年前からブランド力のアップに取り組んでいるのに比べて、滋賀県は文化の発信力が足りませんし、ブランド力が非常に弱い。他の地域にないものが、滋賀県にはいっぱい眠っていますから、もっと歴史や文化を再検証して、情報発信ができないかと考えたわけです。この二月十一日には、豪華客船「ビアンカ」を借り切って設立総会を開催します。
八幡 滋賀県にとって幸運なのは、お江という女性が主人公のときに、嘉田さんが知事としておられることです。いま四国の松山は、夏目漱石の『坊っちゃん』の町から、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の町に変身して、すっかり元気なイメージになりましたが、首長が先頭に立って頑張ったからこそ成功したのだと思います。
嘉田 三姉妹の大河ドラマをきっかけに、多くの観光客にお越しいただきたいと思っていますが、その時に気になるのがお料理です。旅行情報誌『じゃらん』が旅館のランキング調査をしたところ、食べ物では、滋賀県が最下位に近いのですよ。ここは、もっと素直な日常生活をメニューに反映してくださいと(社)びわこビジターズビューロー(注10)にお願いしています。例えば旅館の料理は、えび天や刺身といった、どこにでもあるものでなく、それこそ、にしん茄子(なす)の方が、あるいは湖北でしたら、さばそうめんの方が喜ばれますよと。もちろん、ふなずしや湖魚などもセットにして、今まで外向きには出さなかった日常のものを出していただくと、それが一番、観光客には喜ばれるんですよね。観光ブームに乗ろうと、下手にお化粧をしないことです。
八幡 近江の国は、京都から東日本へ向かう玄関なんです。京都より、ちょっと素朴だけれども、実質性がある文化というのは、関東の人に受け入れやすい。だから、「近江」のイメージも西日本でより高く評価しているように思います。
嘉田 随筆家の白洲正子さんが「近江は日本の楽屋裏」とおっしゃっていますが、あれは悪い意味でなく、奈良や京都の文化の発祥の地が近江だ、ということでしょうね。
木村 それと、とくに湖北の地には、姉川、小谷城、賤ヶ岳の戦いなどで、住家や寺が戦火を浴び、その度に村人らが仏像を土中や池に隠して必死に守ったという地域の誇りがいまも残っていますしね。
畑 かなり前に私が木村さんと初めて対談させていただいたテーマが、近江の仏様でした。電話でお願いして、湖北のおじいちゃん、おばあちゃんに鍵をガチャガチャと回してもらい、無住のお寺を開けていただきました。そこで見た十一面観音さまには、本当に感動させられました。大河ドラマが始まるからと言って、打ち上げ花火のようなイベントだけを行うのでなく、知事のお話のように、滋賀が古くから伝え守ってきたものを観光客の皆さんに知ってもらうのも大切なことだと思います。
冨田 昨年十二月に「関西広域連合」(注11)が発足しましたが、広域連合に入ると観光でも滋賀が埋没するといった意見が県議会から出ましたね。
嘉田 観光誘致のトップセールスを行うために一昨年十一月、中国・北京の旅行会社などを訪ねましたが、京都、大阪は知っていても、皆さん、滋賀についてはほとんどご存じなかった。まさに埋没以前の話です。このため関西広域連合を活用して、「大阪、京都、奈良、その『奥座敷』の滋賀には、例えば地元に電話をして開けてもらわないと見られない貴重な仏様がいっぱいおられますよ」と、存在感を出そうと考えています。
冨田 その意味では、三姉妹の大河ドラマが広域連合の試金石の一つになりそうですね。本日はどうもありがとうございました。
木村 至宏(きむら・よしひろ)さん
滋賀県生まれ。大津市歴史博物館初代館長を経て、平成8年から成安造形大学教授、12年から20年まで同大学長。現在、同大学付属近江学研究所所長、名誉教授。『琵琶湖─その呼称の由来』(サンライズ出版)など、著書多数。75歳。
八幡和郎(やわた・かずお)さん
滋賀県生まれ。東京大学法学部卒。フランス国立行政学院(ENA)留学。通商産業省(現経済産業省)大臣官房情報管理課長などを経て、現在、作家・徳島文理大学大学院教授。『浅井三姉妹の戦国日記』(文春文庫)など著書多数。59歳。
畑 裕子(はた・ゆうこ)さん
京都府生まれ。奈良女子大学文学部国文学科卒業後、京都で教師を勤める。昭和58年に滋賀県に転居。平成5年に朝日新人文学賞受賞。その後、滋賀県文化奨励賞受賞。著書は『花々の系譜 浅井三姉妹物語』(サンライズ出版)など多数。62歳。
嘉田由紀子(かだ・ゆきこ)さん
埼玉県生まれ。京都大学大学院・ウイスコンシン大学大学院修了。農学博士。琵琶湖研究所研究員、琵琶湖博物館総括学芸員、京都精華大学人文学部教授を経て、平成18年7月に滋賀県知事に初当選。昨年7月に約42万票を獲得して再選。60歳。
冨田正敏(とみた・まさとし)
愛媛県生まれ。平成14年、滋賀報知新聞社社長に就任。19年から八日市商工会議所副会頭。現在、(社)滋賀県新聞連盟の代表理事、(社)日本地方新聞協会会長代理。びわこキャプテン(株)(FMひがしおうみ)代表取締役。61歳。
(注1)浅井長政(あざいながまさ)=北近江の戦国大名。三姉妹の父親。姉川の戦いでは、朝倉と結んで義兄・信長に刃向い、その後三年間にわたって抵抗したが、小谷城で自害する。
(注2)石田三成(いしだみつなり)=長浜市出身。豊臣政権で五奉行の一人。関ヶ原の戦いで西軍の中心になるが破れて京都で処刑される。
(注3)前田利家(まえだとしいえ)とまつ=利家は信長の家臣後、秀吉の五大老の一人になる。加賀藩初代藩主。正室のまつは、様々な機転で利家を支えた。
(注4)山内一豊(やまうちかずとよ)と千代(ちよ)=一豊は妻・千代の内助の功で出世を重ねる。千代は米原市出身で、一豊は長浜城主であったこともある。
(注5)京極高次(きょうごくたかつぐ)=妹は秀吉の側室の竜子、妻の初は、江の姉。関ヶ原の戦いでは、大津城主として東軍につく。
(注6)林羅山(はやしらざん)=江戸時代初期の朱子学者。江戸幕府の顧問となり、儒教を社会統治の基本に位置づけた。
(注7)春日局(かすがのつぼね)=江戸幕府三代目将軍・徳川家光の乳母(うば)。坂本城主・明智光秀の家老の娘。大奥を統率し、絶大な権勢をふるう。
(注8)六角義賢(ろっかくよしかた)=南近江の戦国大名。蒲生郡観音寺が居城。歴代の足利将軍らが戦乱を避けて領内に滞在した。
(注9)柴田勝家(しばたかついえ)=信長の家臣。本能寺の変後、信長の後継問題で秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城で妻のお市と自害。
(注10)(社)びわこビジターズビューロー=滋賀の観光の中心機関。観光スポットや物産、イベント情報の発信などを行っている
(注11)関西広域連合=滋賀、京都、大阪など二府五県が参加する広域行政組織。防災、観光など七分野で広域的な事業を行う。













