西堀榮三郎記念探検の殿堂学芸員・角川咲江
◇東近江
西堀榮三郎さん(一九〇三~八九)は小学五年生のころ、京都・南座で開かれた白瀬日本南極探検隊の報告会に参加して、南極をめざすことに決めた。だが、実際に南極の地に立ち、最初の越冬隊の隊長になったのは、五十四歳だった。
失敗から生まれる成功 物事を探求する精神
西堀さんは、途中で諦めることなく常に前向きな性格の人で、南極への夢を追い続ける中で身につけていった多くの知識と経験(特に技術力)、そして築いた人脈は、南極以外の分野においても生涯に渡って大いに活かされた。
西堀さんは、いくつもの顔(活躍の舞台)をもっていた人で、人はその才覚を「八ヶ岳」と呼んだ。富士山(日本一)のような山の頂点を極めた人(スペシャリスト)ではなかったかもしれないが、いくつもの峰を築き(新しい分野を開拓し)、その発展に必要な人材を育て、分野に関係なく問題解決にあたることができたゼネラリストだったと言われている。本人もそうありたいと努めていた。
「境をつくる専門バカ」とか「異質の協力でチームワーク」という西堀語録がある。これは、専門家といわれる人ほど重箱の隅をつつくような細かな観点に捕らわれがちだが、もっと見知の広い大局の視点と他から何かを学ぶ姿勢の大切さを後世に教えている。また、「三人寄れば文殊の知恵」という諺にあるように「違う経験・違う知識・違う性質」の人がお互いに個性を尊重して協力できると、和ではなく積の形で大きな仕事ができる(思った以上の成果を得ることができる)のだという。その考えは、第一次南極観測越冬隊長の立場でも活かされ、隊員等を指揮した。
公立の科学館や博物館では、公の施設がすべき事業かどうかを問われる内容も少なくなく、常にその指摘の壁を突破できるとは限らない。あるときは突拍子もない危険に身をさらす行為と受け取られたり、一部の人を対象としたエリート教育だと批判されることもある。
博物館は、一般に何かの分野に特化してその専門性を売り物にしているところが多い。探検の殿堂で言えば「探検」(探り調べること)である。西堀さんの功績を顕彰する上で“科学”に力を入れている部分はあるが、ここでいう“科学”とは、原理原則を教えることではなく、科学的な視点で物事を探求(探究)することと、実体験の大切さを意味している(人生は実験なり)。子どもたちが大人に育っていく過程でそうした体験の積み重ねが「応用の利く知識」となり、困難や課題を乗り越えていくための「人間力」を育むことに通じると信じている。
西堀語録に「良い品質は、作る人間の込めた魂」というのもある。青少年育成で重要なのは、その取組みに「魂を込めるかどうか」ではないだろうか。第三者的には、単に子どもと一緒に遊んでいるに過ぎないと見えることでも、本気で向き合って一緒に創り、失敗と成功を積み重ねていく中で、子どもは子どもなりに、大人は大人なりに新しい発見をし、新しい知識や生きる力を身につけていくのだと思う。時代は変われども西堀さんの功績から学ぶことは多い。
角川 咲江(すみかわ さきえ)プロフィール
1966年東京生れ。武蔵大学人文学部社会学科卒。民間会社に就職し、親会社が建設した全国の博物館・科学館の開館後の実態調査・研究に携わる。95年・彦根市に嫁ぐと同時に旧湖東町に奉職。3級アマチュア無線技士。好物・鮒寿司。夢・南極越冬隊員になること。得意・遊泳。








