家族との永遠の別れ、絵筆に託し 近江の民話に心象風景見出す
◇大津
近江の民話を題材にした「花折峠」などで知られる画家、三橋節子さんが夭折して、二十四日で没後三十八年を迎える。慈愛と哀しみをたたえた名作は、二年間にわたる闘病生活の中、どのようにして生まれたのだろうか――。【高山周治】
三橋さんは昭和四十三年、画家の鈴木靖将さんとの結婚を機に大津市内に住まいを構え、幸せな日々を過ごしていた。そんな日常を一変させたのが、四十八年一月に見つかった右肩鎖骨のがんだった。画家の命である利き腕の切断を迫られた。
三橋さんは入院中、死の恐怖で布団に顔をうずめ、一層心を閉ざしてしまった。夫の鈴木さんは、琵琶湖の神秘性を語り合った健康な頃を思い出し、借りてきた近江の民話を読み聞かせた。
それでもふさぎ込む三橋さんを、鈴木さんは見かねて散歩へ連れ出し、「朝から晩まで死ぬことばかり考えているのはお前しかいない。死がテーマになるはずや。それが画家としての仕事や」と語った。
それが三橋さんの画家として矜持をゆさぶったのか、三月に右腕切断の手術をして、一か月足らずのうちに左腕でスケッチの練習を始めた。六月の退院後、八月には左手で最初に描いた大作「三井の晩鐘」「田鶴来」百号二点を仕上げた。それまでの穏やかで淡々とした作風に、凄(すご)みが加わっていた。
自宅に戻って創作活動に励み、幼子らと花摘みやサッカーに興じる三橋さんだったが、病魔の恐怖で夜中に突然目覚めたり、昼間ふいに姿を消したりした。鈴木さんはそのたび、さがしあるいた。
亡くなる半年前には肺にがんが転移し、末期症状の激しいせきに襲われた。そんなある深夜、一人でテープレコーダーに耳を傾ける三橋さんの姿があった。教会で挙げた結婚式や披露宴の録音だった。それから一時間ほど聴き、「お葬式は教会で。そしてたくさんの白い小さな花で飾ってね」と鈴木さんにつぶやいた。
この頃に制作されたのが、最高傑作といわれる「花折峠」(昭和四十九年九月)だ。
琵琶湖の西、比良山地の裏側のさば街道に伝わる民話では、気立てのよい花売り娘が、しっとにかられた別の花売り娘に洪水で荒れる川に突き落とされながらも、峠の花が一斉に折れて助けられる。
野花が咲き乱れて華麗な作品だが、どこか死の香りが漂う。娘の表情は眠るよう。「死出の旅を描いた一方で、生きたい、助かりたいと奇跡を祈る気持ちもあったろう」という。
そして死の一か月前、「余呉の天女」(昭和五十年一月)で絶筆。暗い空に溶けるほど透明な天女は、悲しげにうずくまる幼女に微笑みながら、今まさに昇天しようとしていた。
昭和五十年二月二十四日午前零時三十五分永眠。五歳の長男と、三歳の長女向けに、最後の手紙をひらがなで遺している。「きょうはたくさんゆきがふってますね。どれくらいつもるかな。またゆきだるまをつくったり、こうえんでソリができますね。ではさようなら△またきて□」「ゆきやこんこんあられやこんこん♪…なーなー(人名)はこたつでまるくなっているのか おにわをかけまわるほうかどっちかな」。
鈴木さん(68)は作品の魅力を「普遍的で分かりやすい『家族』がテーマになっているからと思う。心残りもあったかもしれないが、自分の生涯を精一杯凝縮して、絵を描ききった」と、遠くを見つめた。
三橋節子美術館(大津市小関町(077-523-5101)の作品、遺品を紹介する企画展は九月二十三日まで。








