木地師の祖として祀られる親王
藤原氏の追跡を遁れた親王は、駒返しの峠から笹路(そそろ=甲賀市土山町笹路)に入られたという伝説がある(『角川日本地名大辞典』)。
「自分を匿ってほしい」との親王に、「あいにく年の暮れで、忙しくしています」と村人。親王は己の身分を明かされ、「今後この村では、正月の門松を建てなくてよい」とおっしゃった。驚いた村人たちは正月の準備をやめ、親王をお迎えした。いらい、笹路では正月の門松を建てない習慣がつづいてきた。
笹路の村人は、惟喬親王をさらに奥地の池ヶ原へとご案内した。
池ヶ原は、明治初年から隣接する山女原(甲賀市土山町山女原)への移住がすすみ、明治三十年代、最後の三戸が村を離れ廃村となった。池ヶ原から山女原に移住した筒井家に、池ヶ原開村にかんする「書面」一通と「御縁起」がつたえられている。書面の内容はつぎのとおりである。 「五十五代文徳天皇宇、其ノ御子・惟喬親王、位あらそいにて、天安二年(八五八)三月三日、北甲賀に取り籠もり、木引細工し筒井ト御名カエ池ヶ原村ヲ開里ス。(原文のまま)」
また、同家所蔵の御縁起に、親王は、翌貞観元年(八五九)に小椋郷に赴かれた旨を記している。
旧・池ヶ原集落の後の山に小さな台地があり、「惟喬法親王社」が祀られている。「惟喬親王潜幸跡」碑や甲賀市教育委員会による案内板も建てられている。筒井家には「安永二年(一七七三)二月十七日願主」と墨書した惟喬法親王社の棟札も残されている。惟喬法親王社へは山中の杣路を辿ることになり、見つけるのはかなり難しい。
山女原から県道五○八号に出て北へ向かうと、野洲川上流の鮎河集落(甲賀市土山町鮎河)に至る。鮎河には三上六所神社が鎮座する。
同社の主祭神は、天御影神ならびにこの地を拓いた三上三郎公である。
明治四十二年、太神宮神社・大皇神社・天王社・貴船神社・吉野神社の五社を合祀し、現社名を称えるようになった。このうち、大皇神社のご祭神は惟喬親王で、もとは鮎河奥地の小屋村にあり氏神と崇敬されていたが、明治期、住民が鮎河(東野)に移り、大皇神社も集落背後の山中に遷された。これがさらに三上六所神社に合祀されたのであった。現在、東野の山中に「大皇神社旧蹟地」の碑が建てられている。明治期の「神社明細帳」には、およそつぎのように記されている。
「(現・小椋姓の先祖三戸の者)字・小屋ト申ストコロニ従前、居住致シ候テ、惟喬親王ノ御側に付キ添イ、処々御幸ノ折、御供人ニテ営業ス。(中略)御君様(注・惟喬親王のこと)御崩御ノ後、其ノ御恩ヲ報ヒ奉ラント崇敬、氏神トシテ尊敬シ奉リ(以下略)」
池ヶ原・惟喬法親王社および鮎河・大皇神社は、ともに惟喬親王を木地師の祖として尊崇していたことが明らかである。
中島 伸男
(野々宮神社宮司)






