世神社の変転、そして原の山味噌
【世神社】日野町松尾
日野町松尾・井林神社の境内に、惟喬親王をお祀りする世(せ)神社がある。
井林神社は瓊々杵尊(ににぎのみこと)をご祭神とし、麓の広場から約四十段で拝殿、さらに二十段あまり上がると本殿の前に立つことができる。
世神社は、その井林神社への石段前広場一隅にひっそりと鎮座しておられるので気付かない人のほうが多い。社祠は、高さ一メートル余の小振りな石室である。
世神社はもともと上市淅上(かみのいち・かしあげ)の辻(現・大窪)にあり(『近江日野町誌』)、とくに「日野椀」塗師屋の崇敬の対象となっていた。寛永二年(一六二五)に淅上の辻から綿向神社に遷され、文化十年(一八一三)には綿向神社から井林神社へと、二度目の遷座がなされた(「綿向神社文書」)。
室町時代、日野は全国漆器の八大産地の一つとして知られていた(『和漢三才図絵』)。正徳二年(一七一二)には、大窪だけで塗師屋九十軒、その下商人(木地屋など)三百軒があったと記録される。しかし、他産地の製品に押され、さらに日野商人が「合薬(あわせぐすり)」を主として商うようになり、日野椀の衰退に拍車がかかった。宝暦六年(一七五六)には町が大火に見舞われ、日野椀の製造は天保年間(一八三〇~四三)にほぼ終わりをつげる。
世神社の二度にわたる遷座は、日野椀の盛衰の影響を受けたためかも知れない。日野の塗師屋仲間が伝えてきた惟喬親王像の画軸一幅が、第十代「塗師安」により近江日野商人館に寄託され展示されている。惟喬親王は、漆器業者からの尊崇をも受けていたのである。【芦谷神社】日野町原
日野町域の東北端、佐久良川にそった原の集落。東に竜王山の尖った姿が美しく眺められ、北には大きな杉の森と石鳥居が見える。原の鎮守社、芦谷(あしや)神社である。御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。
芦谷神社には、惟喬親王とかかわるつぎのような話がつたわっている。
「惟喬親王は山から山へと伝い歩き、旧山内村一帯(甲賀市)の村々へと潜行され、その隠れ家も追っ手の知るところとなると、今度は鈴鹿の山伝いに平子・熊野・西明寺(いずれも日野町)への道を通り、君ヶ畑へと遁れられた。その途中、原の村人が芦谷神社で山の神の集まりをしているところに立ち寄られた。村人たちは、親王一行を丁寧にもてなし、山味噌を一行に差し出した。」
原の山味噌は、木桶に味噌を入れその上に豆腐を乗せ、さらに味噌と豆腐を交互に詰めて作り上げる。「惟喬親王はこの山味噌を食されると殊のほか味がよく『この味噌の味は、子々孫々に伝えるように』との言葉を残し立ち去ってゆかれた。(昭和五十九年刊『東桜谷志』)
惟喬親王の逃避行が本当にあったのかどうかは別にして、親王と庶民の交流をもとにした心温まる物語である。
中島 伸男
(野々宮神社宮司)






