町の発展と「東屋組一家」
近世、つまり江戸時代の八日市は農業(米づくり)が主要産業であったが、蒲生郡や愛知郡では養蚕業も盛んであったため、その影響で八日市の多くの農家でも養蚕をしていたらしい。しかし、八日市においては、その発展の基礎になった地場産業といえば、やはり煙草と鋳物であり、「中野煙草」、「八日市煙草」が有名で、「金屋という地名」もこのことに由来する。
まず、煙草の栽培については慶長年間(一五九六~一六一四)といわれるが、寛永年間(一六二四~四五)には煙草の問屋があり、八日市には多くの煙草商人がいた。寛文七年からの約五十年間は禁止された時期もあったが、一八一八(文政元)年には再び煙草の栽培が多くなり、煙草売買相場が立ち上がっている。栽培地域は中野・金屋付近に多く生産され、特に中野地域は、土質が米作りよりも畑作に適しているということで盛んであった。明治以降においても、煙草生産が八日市の経済発展に大いに貢献したようである。
次に、金屋の鋳物であるが、その歴史は非常に古く、野々宮神社には一二三三(天福元)年と伝えられる釣灯籠や「薄墨御綸旨」などが、金屋の鋳物師の貴重な史料として大切に保存されている。また、この神社には、慶長一九年の大坂冬の陣の起因とされた、京都方広寺の大仏鐘鋳造に際し、金屋の鋳工職人にも案内状がきて、この招きに応ずるために作られたのぼり旗が保存されている(この釣鐘に刻まれた「国家安康」の文字が大問題を起こしたことは有名)。
そのほか、鋳物師に関する多くの文書が残されており、『近江神崎郡志稿』には、金屋鋳物師の製作品の一覧表があり、その主なものは次のとおりである。
八日市市内の川桁御河辺神社釣鐘(大永二年)・成願寺梵鐘(寛永一七年)・布施神社鰐口(寛永二一年)などのほか、市外の広い地域にも需要があった。
近江八幡の長命寺鰐口・日牟礼八幡宮梵鐘、五個荘の観音正寺梵鐘、安土の浄厳院梵鐘、日野の信楽院梵鐘、竜王の苗村神社鰐口さらには、長浜市の小谷寺梵鐘がある。
その他にも八日市の産品として有名なものに八日市升と八日市矢立がある。八日市升は、近世初期に八日市場で使われていた升で、京升の約八合の容量で「八日市」という印が押されていた。また八日市矢立というのは、墨壺に筆入れを付けたもので、銅または真鍮で造られ、帯に差せるようになっており、江州矢立とも呼ばれて、広く好評であった。
ここまで、八日市における明治・大正・昭和戦前にかけての歩みを見てきたが、明治維新によって四民平等の平民社会となり、地方政治も藩から地方自治体が行うようになった。つまり明治憲法の制定で、江戸期の村々は新制度の市町村にまとめられ、八日市村、浜野村、金屋村らも八日市町として発展していったのである。八日市は江戸期以前から市場まち、宿場まちとして存在し、明治以降も東近江地方一円の市場まちとして栄えたので、市場に集まる興業者や出店者で大いに賑わった。しかし、市場町としての規模が大きくなるにつれ、もめ事や喧嘩沙汰も増え続け、これを取り締まる必要があったが、庶民生活においては、日常のもめ事を一々警察や司法に訴えていては生活が成り立たず、いわゆるトラブル処理屋が必要になってきた。こうした中、庶民の自治警察的な存在として現れたのが、侠客「東屋組一家」である。明治の中期以降、八日市には遊郭ができ、大正期には飛行場や軍隊もできたので、外部からの人の集まりや、もめ事も多くなり、これを一手に取り仕切る東屋組の存在は、それなりに大きなものがあった。
▽喧嘩、もめ事の仲裁や決着(地方の顔役)
▽公共の土木・建設事業における人員の動員(人夫集め)
▽遊廓・飲み屋など盛り場荒しの取り締まり(縄張り規制)
▽防災・防犯の自警団的な役割(警察補助)
ただし、組員の多くは自前の家業・稼業を持ちながら参画していた。ちなみに、昭和初期に撮影された東屋組勢揃いの写真を見ると、消防団か鳶職のような半被を着ており、八日市の町の「町火消し」のような役割も担っていたようである。





