中島 伸男
愛智郡城橋は現・東近江市中岸本町に存在する。御河辺橋を北上する県道216号途上の堂山と呼ばれる丘陵部付近がそれで、いまも丘陵には薬師如来をまつる小さな祠堂が存在する。
蛭谷の惟喬親王「御縁起」は、岸本村・東村蔵人が書写したものを寛永16(1634)年に蛭谷・大岩助左衛門重成らが買い入れたものである(巻末の書付による)。
藤澤住職のお話のように、瓦屋寺が「御縁起」を必要としたのは、そこに聖徳太子の御事績について綴られている箇所があったからであろう。当時から、東近江各地には聖徳太子伝説は存在していたと思われるが、文字化されたものは少なく、その意味で瓦屋寺では「御縁起」を貴重としたのではなかったかと私は思う。
それとは別に、私が興味を抱いたのは、瓦屋禅寺所蔵の惟喬親王「御縁起」に捺された印章である。「小椋太政大臣實秀」は、伝説的に語られる惟喬親王の重臣であり、その子孫はのちに姓を大岩に改め、筒井神社宮司として蛭谷における全国木地師支配の中心的役割を果たしてきた。
しかし、大岩家第47代・実寿(さねひさ)のとき、明治維新の諸制度大変革により同家は急激に没落、ほとんど無一文で蛭谷を去ったという。
たまたま私は、大岩家第49代・大岩忠司さん(豊中市)を知り、ご自宅を二度お訪ねした。そのとき大岩さんご所蔵の貴重品として拝見したものが、まさに瓦屋禅寺所蔵「御縁起」に押印されている「小椋太政大臣実秀印」の印章であった。二寸角の印章で材質は柘植。「御縁起」に押印された文字・模様がまったく同一である。
明治期以降、蛭谷を去り居を各地に移しつつ、それでも大岩氏が子孫に伝えた印章が瓦屋禅寺所蔵の惟喬親王「御縁起」に捺されている。それは同寺所蔵「御縁起」が、明治期以前に買い求められたことを証しているとともに、長らく惟喬親王伝説を追ってきた私にとって格別の感慨を抱かざるを得ない事柄であった。
■聖徳太子1400年大御遠忌
聖徳太子が薨去(こうきょ)されたのは推古天皇30(622)年で、翌令和4(2022)年には1400年御遠忌を迎えた。聖徳太子が活躍されたのは主に飛鳥・斑鳩の地であるが、近江、とくに琵琶湖東岸部には太子の足跡を伝える社寺が数多い。NPO法人歴史資源開発機構の大沼芳幸氏も、聖徳太子開基と伝えさまざまな伝承をもつ社寺は、全国で近江がもっとも多いと述べられている(『聖徳太子の文化観光資源化調査報告書』)。一昨年の10月には太郎坊宮で「聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会発足式」が開催され、令和4年の大御遠忌に向けての取り組みが進められた。
一方、惟喬親王伝説の拠点も東近江である。
聖徳太子の時代と惟喬親王のそれとは270年余の隔たりがあるが、東近江の先人たちは、聖徳太子ならびに惟喬親王の2人の皇子に、格別の信仰を抱きそれを守り育ててきた。惟喬親王1千年遠忌は、蛭谷では明治15(1882)年に、君ケ畑では明治16年に執り行われた。
私は、瓦屋禅寺における「八日市場市神之略本記」ならびに惟喬親王「御縁起」の存在を稀有な出来事と受け止めるとともに、私たちが悠久の歴史の中で日々を暮らしていると、改めて強く認識したのであった。





