無人島から有人島へ
最初に小笠原ビジターセンターを訪れた。島の歴史が紹介されていた。
展示によると、3人の探検家のうち、航海術に長けていた江戸時代初期の探検家・嶋谷市左衛門(生年不詳―1690年)は、1675年、幕府の命を受け、小笠原諸島の無人島に上陸して測量をもとに地図を作成して地名を付け、島の鉱石や動植物を持ち帰った。これが政府による最初の正式な探検調査とされ、小笠原諸島の存在が知られるようになった。島の発見は、その82年前の1593年10月、小笠原貞頼が徳川家康の許しを得て行った小笠原貞頼の探検調査が最初と伝えられている。
その後、灯油として利用された鯨を捕る外国の帆船が島に帰港するようになり、1830年には父島に上陸した欧米人が、捕鯨船に水や食料を供給して生活をはじめた。
欧米人の居住とペリーの来島を知った幕府は1861年、咸臨丸(かんりんまる)を小笠原に派遣。乗船したジョン万次郎の通訳で欧米人と共存の協力関係を築き、翌年、八丈島から38人の移住者が父島に渡り開拓を始めたが、国内外の情勢が不安定になり、2年後には官民全員が引き揚げた。
その後、明治政府に「日本は小笠原を放棄したのではないか」という各国からの問い合わせや意見が相次いだため、1876年、小笠原の日本統治を各国に通告し、内務省小笠原出張所を開設。2年後には約200人の日本移民が生活をはじめ、綿花やサトウキビの栽培が盛んになり、現在の2倍近い人口4686人にもなったとの記録がある。
小笠原の歴史と関わりの深い嶋谷市左衛門とジョン万次郎について、ガイドの冨田さんは「島民の間では、幕府の命による正式な探検調査をしたと伝わる嶋谷市左衛門によりも、小笠原貞頼の方が知られているのではないでしょうか」と話す。
小笠原神社にある日本返還35周年を記念して建立された石碑に、嶋谷が書き残した島の地図が刻まれているが、知る島民は少ないという。また、地元の学校の教科書に紹介されることもなく、嶋谷の功績を今に伝える機会は限られている。
島に移り住んでいた欧米人と争わず、協力関係を築く大きな力となったジョン万次郎は、小笠原ビジターセンターで特別企画展が開催されるなど、その功績は島民には知られている。
また、二見港の公園には「ペリー提督来航記念碑」が建立されており、碑文には「1853年6月14日、ペリー提督が父島二見港に入港した。小笠原諸島の第一発見者は日本人であると指摘しており、このことが後に小笠原諸島が日本領土として認められる要因になった」と刻まれている。
もう一人の探検家・榎本武揚は、小笠原でコーヒーの木を最初に栽培したとされる人物で、現在の東京農業大学の前身校の創設者としても知られる。同センターに榎本の展示物はなかったが、父島が国内でコーヒー栽培の発祥地であることを取材を通して初めて知った。








