関西人になったモーツァルト もう器楽作曲家とは言わせへんで(43)
1786年になると、モーツァルトの音楽活動に変化の兆しが現れ始めた。それまでは、演奏会を自前で開催し、もっぱらピアノ協奏曲を中心としたピアノ曲の作曲とその演奏による興行収入で大きな収入を得てきたが、予約演奏の集客数が徐々に減り始め、また自分自身も演奏会に明け暮れる生活に飽きがきたのか、はたまた、ピアノの弾き過ぎによる指の不調があったのか、理由ははっきりしないが、活動の中心をオペラ作曲に振り向けたいと思うようになった。そんな時、ウィーン移住後知り合いになった台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテと『フィガロの結婚』を舞台にのせないかという話が持ち上がった。これは、フランスの劇作家ボーマルシェの原作になる貴族を揶揄する過激な風刺劇であったが、モーツァルトは、ストーリーの軽やかで楽しい演劇性に、たまらない魅力を感じた。『そや、ダ・ポンテにうまいこと翻案してもーたら、これは、行けるで』。モーツァルトと同様、この劇の魅力に取りつかれたダ・ポンテは、話を受けるや、早速皇帝の所に参じ、まんまと許可を取り付けたのだ。作曲の許可が出るや、モーツァルトは全身全霊をつぎ込んで、作曲に集中し、1786年5月1日、初演を迎えることになった。ウィーンに来てから、本格的にオペラに打ち込んだのは2回目であった。1作目は、ドイツ語でのオペラが熱を帯びていた1781年で、それからドイツ語オペラは下火になり、再びイタリア語でのオペラが隆盛を迎えていたのだが、5年後の今度は、イタリア語での挑戦であった。「もう器楽作曲家とは言わせへんで」モーツァルトには一つの野心があった。イタリア語でも書ける本格的なオペラ作曲家として、この世に名を残すことであった。






