関西人になったモーツァルト 皇帝陛下が、僕を雇ってくれはったことは、たぶん知らんやろ(46)
1787年は、父親の死、ドン・ジョヴァンニの上演、ベートーヴェンとの束の間の邂逅(かいこう)など、モーツァルトにとっても、忘れがたい一年になったが、さらにその年の末には、ウィーン滞在6年目にして初めて、皇王室の宮廷作曲家という念願の公職に任命されるという、予期せぬ名誉を受けることになった。これは、前任者のグルックの死去により、空席が生じたためで、おそらくはヨーゼフ二世の推薦があってのことと思われるが、俸給は前任者の半分にも満たない、800フロリーンであった。もっともモーツァルトにとって、好都合だったのは、実際の職務は、冬季の舞踏会シーズンに「ダンス音楽」を作ることだけで、その他の厄介な業務を行う必要は、まったくなかったことである。お金よりも名誉をもたらす仕事で、モーツァルトは、12月19日付けの、姉ナンネルに宛てた久しぶりの手紙で、その事実を伝えた。「ねえーちゃん、ほんま長いこと返事せーへんかって、ごめんな。プラハで『ドン・ジョヴァンニ』を書いてて、大うけやったことは、もうねえーちゃん、知ってるやろ?でもな、皇帝陛下が、僕を雇ってくれはったことは、たぶん知らんやろなぁ」この頃にはモーツァルトと姉の関係は、まったく冷え込んでいて、手紙のやり取りはもっぱら、父親の財産分与に関わる、事務的なやり取りが中心であった。姉にしてみれば、故郷を捨てたうえ、父親の臨終にも帰郷せず、家族の義務を放棄した弟が許せないのである。モーツァルトにしたところで、名誉職を賜ったことは、うれしかったが、本音を言えば、グルックと同じ額の2000フロリーンが欲しかったに違いない。この頃から、モーツァルト家の家計が火の車になり始めたからである。友人に借金を懇願する手紙が次々と送られるようになるのである。






