関西人になったモーツァルト 絶対、イギリスの人らに受けるはずや(48)
「ここに引っ越してから10日間に、前の家でやっていた2か月分以上の仕事をしました」1788年の6月に友人プフベルクに宛てた書簡の中で語ったモーツァルトの猛烈な仕事ぶりには、何か鬼気迫るものがあり、その時に、彼の最も有名な3つのシンフォニーのひとつ、K543変ホ長調の第39番も書かれた。そして、立て続けに7月25日には、K550ト短調の第40番が、さらに8月10日には、「ジュピター」と命名された最後のシンフォニーK551ハ長調の第41番が、書かれた。思うような収入をあげることができず、家計の状況が好転しない時、モーツァルトがいつも状況打開のために使う作戦は、旅であった。モーツァルトは、別のプフベルクに宛てた手紙の中でも、「私は当地以外でも、もっとたくさんの愛好家を得られると期待している」と書き、危機を救ってくれる友人に、具体的ではないが、それとなく、「海外で稼いできますよ」と匂わせた。「行くんやったら、イギリスやな。8歳の時に、イギリスで受けた歓待は、やっぱ、忘れられん。あの時、クリスチャン・バッハさんの膝に乗って、一緒にピアノ弾いたんは、なんちゅーても、格別の経験やった。イギリス出身の僕の弟子、アトウッドも、きっと動いてくれるはずや。それに、僕のシンフォニーが、何や知らんけど、向こうで結構に人気出てるって、うわさもある。これは、えーチャンスや。絶対、この3つのシンフォニーは、イギリスの人らに受けるはずや」イギリス行きを実現するために、クリアーしなければならない必須条件は、旅費の工面と、妻の同意であった。難しいこれらの条件のうち、後者は、モーツァルトの努力で何とかなるものであったが、前者は、そもそもモーツァルトの努力でどうなるものでもなかった。金策に走るも、必要なお金は集まらない。実現すれば、モーツァルトの人生をガラッと一変させる可能性のあった話は、結局、絵にかいた餅に終わってしまったのである。






