「ステージパパ、レオポルトの本音」 初めてのピアノ協奏曲(20)
――イタリア旅行のあと、3度目のウィーン旅行もされていますが、成果はあったのですか。
レオポルト 前回のインタビューの終わりに、マリア・テレージアさまの我々一家に対する見方をご紹介しましたが、私どもが前もって「乞食のように世間を渡り歩く連中」と思われていることを知っていれば、もちろん、旅はしませんでした。事実、宮廷で女帝さまには面会しましたが、愛想よく対応されただけで、何の成果もありませんでした。
――ではその後、息子さんの就職に関しては、何の進展もなかったのですね。
レオポルト 残念ながらそうです。閉塞した気分を変えるためもあって、思い切って転居しました。
息子も17歳になり、姉はもう20歳を越えていましたから、ゲトライデ通りの家は、一家4人で暮らすには、実際手狭になっていました。そこでダンスの先生が舞踏会を開く建物の二階を借り受けることにしたのです。部屋は8つもありましたから、家族全員そろっても、以前のような狭さを感じませんでした。私は、ヴォルフガングやナンネルがこの家を出て行ったあとも、ここで死ぬまで過ごしましたから、ほんとうに愛着のある家です。
――新居に変わって、息子さんの中で何か変わったことが起こりましたか。
レオポルト いや、直接的には、生活の変化はありませんでした。息子はコンサートマスターでしたから、楽団のまとめ役、それに大司教から命じられた教会用のミサだとかを書かねばなりませんでしたからね。それでも、私の目からみても、引っ越しの前後から音楽的な変化のようなものを感じていました。おそらく引っ越し前に行ったウィーンへの旅が影響しているのだと思います。一つの大きな変化は、自前のピアノ協奏曲を書き始めたことです。それまでの作曲は、準備段階のようなもので、他人の書いた曲を編曲して、全体を整える作業が中心でしたが、ここへきて、自分の作曲したメロディにオケをからませる技量が格段に高まり、ヴォルフガングの独自性を曲の中で示せるようになってきたのです。
――なるほど、それで第一番(K175)のコンチェルトが完成したわけですね。コンチェルト以外のシンフォニーはどうだったのですか。
レオポルト シンフォニーでも顕著な成長をしたと思います。私がその成長を実感したのが、《小ト短調》の第25番(K183)と「春を連想させる」イ長調のシンフォニー、第29番(K201)です。
――どうりで、この2曲は、現代の演奏会でもさかんに取り上げられていますね。前の曲が17歳、後の曲が18歳、10代でもうこの領域にたどり着いていたとは驚きです。
レオポルト ありがとうございます。でも私の考えでは、本当の音楽家と呼ばれるには、オペラで成功しないと、駄目です。幸い1774年夏に、ヴォルフガングがミュンヘンでオペラを書くチャンスが巡ってきました。
――では、次回はそのお話をお願いします。
モーツァルト・バー「キール」
〒520-0047 大津市浜大津2丁目1-17一番街ビル






