「ステージパパ、レオポルトの本音」 5つのヴァイオリン協奏曲(22)
――1775年3月にミュンヘンからザルツブルクに帰られてからは、しばらく故郷で過ごす日々が続きますが、どれくらい続いたのですか。
レオポルト 息子と母親がマンハイムやパリ方面への旅に出る1777年9月までのほぼ2年半です。
――では、息子さんは宮廷での仕事を粛々とされていたのですね。
レオポルト 何かいい機会があればと、常にアンテナを巡らせて、注意を払っていましたが、これという機会には恵まれませんでした。もちろん、それは就職という意味であって、仕事上のいい出会いはいくつかありました。
――たとえば、どんなことがあったんですか。
レオポルト 大きな仕事の機会としては、その年の4月に、マリア・テレージアさまのご子息で、16人のお子さまたちの末子にあたるマクシミリアン・フランツ大公が、ザルツブルクに立ち寄られて、その際、祝典劇を作曲するように、大司教さまからご指示がありました。息子は、『牧人の王』という作品を書くことになりました。フランツ大公は、その後、ケルンの大司教になられましたが、息子と同年で、音楽を大事にされ、そののちは、ベートーヴェンの後援者にもなられています。
――それにしても、マリア・テレージアさまは、16人もお子さまをお生みになられたとは、今の少子化の時代からは、信じられない話ですね。
レオポルト そうですね。当時は衛生状況が悪かったですから、6,7人は普通でしたが、10人以上は、私もなかなかの数字だと思いますね。しかも女帝としての地位にあっての話ですから。
――息子さんの音楽的な成長については、何かこの間でお気づきになったことはありましたか。
レオポルト 息子は、ピアノだけでなくヴァイオリンもなかなかの腕前で、この2年半の間に、正式には5曲のヴァイオリン協奏曲を書き上げました。最初のものは、イタリア旅行から帰ってからそれほど日をあけないうちに書いたので、少々イタリア調のところがあります。その後、1775年にまとめて4つ書き上げ、それ以降いっさいその分野の作品を書いていませんから、私からいろいろ干渉されるのが嫌だったのでしょうね。ヴァイオリンに関しては私も一家言もってますから、当然、出来上がった作品には、批評を加えることになります。たぶん、それが鬱陶しかったのだと思いますよ。ご承知のように、私は『ヴァイオリン教程』という教則本まで出しており、この楽器を武器にこの世界でのし上がって来たのです。一方、息子は、小さいころからピアノの虫でした。あくまでピアノを弾きたいんです。1779年1月にパリからザルツブルクへ戻ってくる時でさえ、ヴァイオリンを演奏しなければならないコンサートマスターだけは、絶対やりたくないと注文を付けたほどです。私の目からみても、5つの作品はそれなりのレヴェルを保っていますが、息子の山のようにある傑作群の中では、あまり目立ったものとは言えませんね。もっと書けば歴史に残る作品ができたはずです。繰り返しになりますが、私の批評を聞くのが嫌だったんだと思いますよ。
――なるほど。
モーツァルト・バー「キール」
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