「ステージパパ、レオポルトの本音」 嫁を伴っての息子の帰郷(37)
――1783年7月に、ようやく息子さんのお嫁さんと会う機会があったようですね。そのへんのいきさつを教えていただけますか。
レオポルト 息子は私の同意なしで、その前年コンスタンツェと結婚しましたが、向こうから、まあ、仲直りの意図もあってのことか、ザルツブルクに帰って来て、嫁を紹介すると言ってきたのです。私としては、今さら会ったところで、もう時計を後戻りさせることはできないんですから、義理の娘に会ったって、何の意味もないことなんです。気持ちは冷めていましたが、「帰って来なくていい」とも言えないので、仕方なく受け入れた訳です。
――息子さんは、当然、嫁のいい面も見てほしいと思われていたのでしょうね。
レオポルト そりゃ、そうでしょう。私は頑固な人間ですが、凝り固まった変人ではありません。
嫁のいい面があれば、それは認めてやろうとは思っていました。女性としてのたしなみだとか、品性、もし可能なら、音楽的才能、そんなことも、直接会って話をしてみないと分からないことがありますから。
――伝えられる所では、お二人の関係はそれほど改善されなかったということですが。
レオポルト 少し話してみて、あの子には、私が求める教養というものがないことが分かりました。
まず、話し方が、幼く、豊かな語彙というものがありません。もちろん、当時の女性にそういうものを求めるのは無理があることは承知していました。ただ、それなら、女性らしい気遣い、優しさみたいなものがあるかというと、それもない。自分のことを言うのは恐縮ですが、私の妻は、教養はありませんが、気遣い、人のよさ、他人への共感、そういう女性に求められるものをたくさん持っていました。あの子にあったのは、目の奥にある、ある種の「不信」です。私や娘のナンネルに対する何らかの「反発」です。私を一番がっかりさせたのは、あの子の「守銭奴的」な雰囲気なんです。改めて、息子は馬鹿な選択をしたものだと思いました。
――息子さんは、どんな対応をされていたのですか。
レオポルト あれはあれで、嫁を連れて帰郷したことを後悔していたようです。もくろみは見事失敗したのですから。11月にウィーンに戻る直前、聖ペテロ教会で結婚の報告のために書いた『大ミサ曲』を、一部コンスタンツェに歌わせて奉納し、そそくさと帰って行きました。実はナンネルにとり、これが弟と話をする最後の機会になりました。まあ、運命の皮肉というものですね。
モーツァルト・バー「キール」
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