「ステージパパ、レオポルトの本音」 コンサートプロモーターの真骨頂(38)
――故郷からウィーンに戻って、1784年以降は、息子さんはどんな風に生計を立てておられたのですか。
レオポルト あれはもちろん、ウィーンの宮廷で楽長クラスの役職が与えられたなら、喜んで奉職したと思うのですが、そういう話はどこからも出てこなかったので、自分で自分用にピアノ協奏曲を書き、貴族の友人、知人たちに、年間契約でチケットを買ってもらい、演奏会場の手配もしたうえ、他の演奏者にも出演を依頼して、自前の演奏会の売上げで暮らしていたようです。まるで、自慢でもするかのように、私に、契約者のリストを送りつけてきましたよ。確かに、貴顕の名前がびっしり書き込まれ、息子の人気ぶりが私にもわかりました。170人近い会員ですから、一人6フロリーンの会費として、1000フロリーン近い売上になるわけです。大した儲けです。しかもそれを自営で稼ぐんですから、まあ私には、正直できんことです。
――それで、その時期に、たくさんのピアノ協奏曲が書かれるわけですね。
レオポルト 息子の中にも、作品を書面上に時系列で残しておいたほうがいいのではないかという考えが浮かび、その年の2月ごろから、作品目録というノートを作り、整理を始めたようです。ノートの表紙に、「目録 わが全作品 1784年2月より、1…年…月まで」と書いておるところをみると、あれは、おそらく自分が作曲の引退を決めるまでは、このノートに書きつける決心をしておったのだと思います。
――自作目録に書かれた最初の作品は、やはりピアノ協奏曲ですか。
レオポルト ご推測の通りです。1784年2月9日の日付に『変ホ長調ピアノ協奏曲(第14番)』との書き込みがあります。最初の見開きのページには、5曲記載されていますが、そのうちの4曲は、ピアノ協奏曲ですから、あれがいかにピアノ曲に力を入れていたかが分かりますよね。当時の聴衆にとって、息子の最新のピアノ協奏曲は、さぞ新鮮に響き、快適な心地よさを彼らの心の中にもたらしたと思いますよ。あれは、ウィーンの人たちの趣味を知り尽くしていたので、まるで仕立て屋が顧客のからだにフィットする洋服を作るように、聴衆の琴線に触れる作品を、演奏会の都度作ったわけです。もちろん聴き手は、毎回会場でうっとりとした気分になる。これは自慢になりますが、聴衆の好みを意識して、その趣味にぴったりよりそう曲の書き方を教えたのは、この私なんですよ!
モーツァルト・バー「キール」
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