八日市コミセン「えんめい短期大学」
【東近江】 八日市コミュニティセンターが地域のシニア層を対象に、生涯学習の場として開く「えんめい短期大学」の最終講座が22日にあり、約50人が参加した。この日は、「図説六角氏と観音寺城」の著書がある近畿大学文芸学部文化・歴史学科、新谷和之(しんや・かずゆき)准教授が「佐々木六角氏と八日市」をテーマに講演し、六角氏と八日市の密接な関わりと経済発展、有力大名として政治をリードした知られざる歴史に迫った。
冒頭で新谷氏は「六角氏は研究者にとって魅力的なテーマ。中世八日市は近江の経済の中心であり、ここを抑えるのが重要な意味をもった」と語り、会場の関心を誘った。
六角氏は宇多源氏佐々木氏の惣領で、近江守護職(現在の知事)を歴任した。応仁・文明の乱(1467~77)で西軍方に属したため、幕府からにらまれ、のちの六角征伐(1487~92)につながる。
六角定頼(1495~1552)の時代になると、京から逃れた室町幕府12代将軍足利義晴を観音寺城の麓の桑実寺に長く滞在させるなど、六角氏が政治のリーダーとして幕府と連携し、強い影響力をもつようになる。
これについて新谷氏は、「定頼の代が六角氏の最盛期。六角氏の戦(いくさ)に弱く、負けるイメージは観音寺騒動(1563)以降のもので、長い歴史をみると、六角氏は近江の支配者として歴史をもち、畿内の政治に大きな影響力をもっていた」と強調した。
定頼が没して10年後に起こった観音寺騒動をきっかけに弱体化し、信長の侵攻により鎌倉時代から続いた名門武家は滅亡した。
鎌倉時代の中世八日市をみると、主要街道の東山道(中山道)はわざわざう回して、六角氏の創業時代の拠点の小脇館(東近江市小脇町)付近を通過していたと紹介。
さらに八日市は、南北軸の東山道と伊勢へ至る東西軸の八風街道が行き交う交易拠点としてにぎわい、六角氏の経済力を支えた。
また、下四郷(金屋、中野、今崎、蛇溝、小今など)の保内商人が、六角氏と癒着(ゆちゃく)して、既存の商人集団と対抗し、商圏を広げた、したたかな一面も紹介した。







