中島 伸男
■荻田常三郎
いまから110年前のこと。
大正3年(1914)10月22日午前8時8分、沖野ケ原(現・東近江市南部地区)から翦風号(せんぷうごう)と命名された単葉機が飛び立った。
大西洋に臨む寒村の砂丘で、ライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功したのは1903年。そのわずか11年後のことである。もちろん当時のほとんどの人々は、まだ空を飛ぶ「飛行機」というものを見たことがなかった。
操縦士は荻田常三郎(当時29歳・八木荘村島川出身=現・愛荘町)で、後部座席には助手・大橋繁治(大阪市出身)が搭乗していた。
荻田常三郎は県立第一中学校(現・彦根東高校)などを経て軍役につき、その後は京都室町で父から継いだ呉服店を経営していた。しかし、彼は新しく登場した飛行機に強く憧れ、自らその操縦士になることを決意した。荻田は、大正2年に海路フランスに渡り8ヶ月の訓練を経たのち、家財などを売った資金で愛機モラーン・ソルニエ機(のち、翦風号と命名)を購入、翌大正3年5月に帰国したばかりである。
荻田の飛行大会の目的は郷里・八木荘村の上空を飛ぶことにあった。彼は、その発着場として沖野ケ原を選んだのである。当時の沖野ケ原は松林と草地が混在する広野で、有名な大凧飛揚場でもあった。また、郡内青年大会・競馬大会なども沖野ケ原を会場として開催されていた。
■沖野ケ原に数万人
荻田常三郎の飛行大会は、10月21日と22日の二日間、八日市町の大々的な後援をえて開催されることになった。
21日は強風のため中止されたが、翌22日は好天に恵まれた。飛行機というものを見ようと、県内外各地から数万におよぶ人々が沖野ケ原に集まった。
当日、午前7時に号砲が鳴り、それを合図に荻田常三郎が大橋助手や親戚の人々を連れ立ち入場した。2回目の号砲で荻田飛行士・大橋助手が翦風号に搭乗。8時8分にプロペラが回転しはじめ、約60メートル助走し離陸した。同機は高度700メートルの高空に昇り八日市町上空を一周、愛知川左岸にそって飛行したのち、郷里・八木庄村島川方面に向かった。島川上空では高度を200メートルまで降下した。村人たちが門口に出て歓呼・喝采するなか、機首を返しふたたび愛知川上空に出て沖野ケ原に戻ってきた。当時の新聞記事(「朝日新聞京都付録」)には、着陸時の状況がつぎのように報道されている。
「滑走なお止まらざる間に機は早くも群衆数間(1間=約2メートル)の所に至れり。荻田氏は一大事と突差の間に決心して、機の破壊を顧みず急に停止せんとしたれば、機は左翼を地上に打ち付けさらに右翼を折り逆立ちとなりけり。荻田氏は鼻血を出したるのみにて無事。」
着陸スペースが狭まっていたため荻田は急ブレーキを踏み、そのためハンドルに顔を打ちつけたのであった。機体は逆立ち状態となり大破。修繕のため鳴尾(西宮市)に送られた。
この日の翦風号飛行時間は12分45秒であった。
■翦風飛行学校設立期成同盟会
当日午後2時から、八日市町役場に隣接する修交館(現・八日市コミュニティセンター付近)で荻田常三郎のための慰労会が開催された。その場で当時の八日市町長・横畑耕夫(よこはた・たがお)が沖野ケ原に民間飛行場を設けることを主唱し、八日市町議をはじめ蒲生・神崎の郡長らも賛同した。
翌11月には、はやくも八日市町に「翦風飛行学校設立期成同盟会」が立ち上げられた。その趣意書の最終部分をつぎに紹介する。
「熱誠なる滋賀県八日市町は、古来、大紙鳶(おおいか=大凧)の飛揚を以て歴史的に気流の整調なるを表明せられ、加ふるに土地高燥にして交通至便なる沖野ケ原を中心に、広芒約十五万坪の地を特定し、飛行学校敷地として提供せり。即ちここに日本唯一の飛行学校を滋賀県に建設し、前途有為の飛行家を養成するとともに、飛行に関する学術を研究し、進んで東洋の先駆として飛行機の製作をなさんとす。」(広島清剛家文書)まさに、壮大な計画であり宣言である。
しかし、わずか2ヶ月あまりで思いもかけない事態に直面する。肝心の荻田常三郎が翌大正4年1月3日、京都深草練兵場を翦風号で飛び立つや、その直後に高度40メールで急に左旋回、そのまま横滑りして墜落したのである。機体は炎上、操縦士・荻田常三郎および島田助手は即死した。
八日市町はなおも飛行学校設立の夢を諦めず、大正4年4月19日には「飛行場地鎮祭」を実施するなど取り組みを進めた。町役場には飛行場用地買収のための「八日市飛行場土地課」も設けられていた。
しかし、飛行場の用地取得に要した経費やその維持問題、また飛行家の不在など大きな課題に直面する。町役場・議会そして町民による議論が沸き立ち、こうして翦風飛行学校設立という大きな「夢」は、その後、陸軍航空第三大隊誘致へと方向転換することになる。
110年前、この東近江の一角で飛行機・翦風号が飛び立ち、その飛行機に未来への大きな夢を抱いて町づくりに取り組もうとした先人たちのことを、私たちは忘れないでいたい。







