中島 伸男
■中山道・鏡宿の遊女
そのヒントを与えてくれるのは、中北村から約7キロほど東に位置する、中山道・鏡宿(かがみのしゅく=現・滋賀県蒲生郡竜王町鏡)である。
鏡宿は、中世は交通の要衝として栄え、京を旅立ち東に向かう旅人の最初の宿泊地であった。承安4(1174)年、奥州をさして下向した義経が元服したと伝える「義経元服池」も鏡宿にある(『平治物語』)。
江戸期に編纂(へんさん)された『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』には鏡宿について、「昔は殊に繁昌の地にて淫肆(いんし=旅人をもてなす、いかがわしい宿)もあり遊女もありけるにや、此処の傀儡(くぐつ=人形使い)が都に来って云々」と記している。
中世の宿場町には、傀儡回しや軽業・奇術などの芸で暮らす男たちが集まっていた。その妻女は芸娼妓のようなもので「歌がうまく、姿は美しく、遊女と変わらない」(脇田晴子『女性芸能の源流』)といわれた。
白拍子とよばれる今様の名手も、こうした女性の中から生まれてきたとされている。
中山道・鏡宿界隈には遊女が集まり、その中に京に上り名をなした白拍子が存在した可能性は十分に想定されるのである。
鏡宿から京へ上った白拍子の特筆すべき運命が中山道界隈で語り継がれ、旅僧を経て『平家物語』に取り入れられるとともに、このような中山道鏡宿の「妓王・妓女」説話を、中北村に在した尼寺の尼が語り継ぎ、やがて義王堂ゆかりの伝承になったのではないだろうか。推測ではあるが。
中北とともに江部荘を構成する永原村の福泉寺に阿弥陀如来坐像(貞応元年・1222年造立)が祀られている。平成5年、その胎内から出た檀越銘(施主の名前)に「字鏡宿長者、米持女」という朱書があった。「長者、米持女」とは鏡宿の女性芸能者を統括する女で、その財資によって福泉寺・阿弥陀像が造立されたのではないかとも推定されている(滋賀県立琵琶湖文化館『女性と祈り』)。鏡宿と江部荘を、そしてさらに妓王と近江を結ぶ結ぶ太い「糸」であるといえよう。
■仏御前について
仏御前については、『小松市の文化財』(平成13年刊)に、およそ次のように記されている。
「仏御前は白河兵太夫の娘として、永暦元(1160)年に原町で生まれ、幼少の頃から舞に長じており仏を信ずることが厚かったので「仏」と呼ばれていた。承安2(1172)年、14歳のとき、叔父・白河兵内の招きで京に上がり白拍子となった。その美貌とすぐれた演技で都において名声を博し、時の権力者・平清盛の寵愛を一身に集めるようになった。のちに妓王・妓女の跡を追って出家。安元2(1176)年、仏御前は故郷である軽海郷(現・原町)に帰って小庵に籠り余生を送った。同年8月18日に亡くなったと伝えられる。」
なお、仏御前が庵室をつくって住んでいたところは、「御前様屋敷」といわれ、現在は仏御前を偲ぶ墓石が建っている。「仏御前屋敷跡・仏御前墓」は小松市指定文化財として史跡に指定され、毎年9月16日、墓前で女子中学生(2名)により今様の舞が奉納されている。






