寄稿 中島 伸男
長寿院門前「武隈墓」の由来
東近江市市今代町(明治二十二年まで今田居村)の集落のはずれに、田園や鈴鹿の前山を背景にした、長寿院という天台宗のお寺がある。
この長寿院の門前に、「武隈(たけくま)墓」と彫り込まれた二メートル弱の自然石が建っていて、側面には「文久元年酉秋・鬼面山谷五郎建之」と彫られている。
墓碑の主である「武隈」とは、文政・天保・弘化の幕末(一九世紀前半)に、江戸相撲で「小柳」や「手柄山」そして最後に「湖東山(ことうざん)」の四股名で大関をつとめた関取である。彼は江州・今田居村(東近江市今代町)出身で、本名は安村弥三郎。関取廃業後、第五代目年寄・武隈を襲名している。
この墓碑建立者の「鬼面山」とは美濃・養老村の出身で、やはり大関にすすみ、明治三年(一八七〇)に横綱の免許を得た人気力士である。鬼面山は、嘉永五年(一八五二)年寄・武隈(元大関・湖東山)にスカウトされ育てられた関取である(高永武敏『古今名力士百傑』)。鬼面山は自身を見出してくれた師匠の恩義に報いるため、師匠没後三年目の文久元年(一八六一)、武隈(元大関・湖東山)の墓碑を建立したのであった。
この墓碑は、「はじめ法蔵寺(もと八日市本町、現在・清水二丁目)に建てられ付近の豆腐屋に墓守を依頼していたが、明治維新後、墓守をする人もなく今代町の長寿寺境内に移されたとの話がある。しかし、私が安村家現当主(安村庸さん)にお聞きしたお話では、もともと安村家付近に建てられていた墓碑が、農協倉庫建設の必要があり、現・長寿院門前に移設され現在に至っているとのことであった。いっぽう、法蔵寺(現・八日市清水町、もと八日市本町)にあったとの話もある。大関・湖東山(年寄武隈)の位牌が安村家に伝えられてあり、裏に没年は安政五年(一八五八)六月二十五日とある。鬼面山による墓碑の建立は、湖東山こと武隈の没後三年目である。
法蔵寺御住職の佐和さんは「これまでの記録を調べても、『武隈墓』が当山にあったという記録は見つかりません。でも、武隈の戒名についていえば、この大関が当寺と同じ浄土宗の信徒であったことが分かります」と教えて下さった。安村家の過去帳に武隈の戒名が「高誉勇山晢道信士」とあることについてのご指摘である。この件については後述したい。
「相撲」は日本の国技
「信長公記」には織田信長が近江一国の相撲取りを常楽寺(近江八幡市安土町)にあつめ相撲会(すもうえ)を催したことが記されている。このとき、「百済寺の鹿、小鹿」や「宮居眼左衛門」らのほかに、「鯰江又一郎」「河原寺の大進」など十一名の相撲取の名もあげられている。「鯰江又一郎」は鯰江町、「河原寺の大進」は建部瓦屋寺町(いずれも東近江市)の出身であろうと推定できる。
また、戦国時代を経て徳川時代に入ると、職業相撲が隆盛になってきて、三都(京都・大坂・江戸)を初めとする全国勧進相撲が行われるようになった。江戸中期(明和・安永年間)のころにはさまざまな制度が確立してくる。京・大坂・江戸で相撲が定期的に興行として開かれるようになり江戸相撲や大坂相撲では、有力大名がこぞって強力な力士を抱えるようになった。力士は大名の庇護で経済的に支えられ、いっぽう大名はお抱えの力士の活躍によって藩の力を誇示したり、他藩への優越感を味わったりしたのだという。
江戸期後半からは江戸相撲がとくに盛んになり、年二回、春と秋に催される両国回向院(現・国技館の隣)での場所の日々の勝敗結果がその日のうちに印刷され、売り子がこれを売り歩いて庶民の相撲熱を盛り上げていた。相撲興行を観覧する小屋は相撲のたびに仮設され、土俵回りの土間席とそれを取り囲む三階建の桟敷席が設けられ、土間席には力士を抱えている大名の家臣たちが占めていた。
京相撲から江戸相撲へ
今代村出身の大関・湖東山(年寄・武隈)は、ちょうどこのころ花のお江戸の土俵に登場したのであった。幼名を弥三郎(勘六とも)という。生まれ年には二説があり、享年などから逆算すると寛政八年(一七九六)あるいは寛政十年の生まれとみられる。
弥三郎が最初に力士として登場したのは京相撲であった。
相撲史研究家・大村孝吉さんが、昭和三十四年十月二十五日に当時の読売新聞社運動部長・江馬盛氏とともに安村喜一郎さん宅を訪れている。この書き付けについては、随時、紹介してゆくが、大村さんの記録(「相撲部屋の系図」三)には、安村弥三郎(のちの大関・湖東山)は京都・御幸野政右衛門の弟子として玉勇を称しており、その後、阿部松緑之助の取り立てで江戸相撲に登場したことが記されている。
湖東山の位牌を守る今代町・安村家のご出身・市原昌子さん(昭和十一年生まれ)が明治生まれの祖母・順さんから、「湖東山が帰宅し、たまたま庭にあった大きな岩の手水鉢を軽々と持ち上げた」という話を聞いておられる。この手水鉢はいまも同家の庭に残っている。なお、市原さんのお話では、武隈(幼名・弥三郎)は同じ今代・安村常吉家からの養子であったとも聞いておられる。
長州藩のお抱え力士として登場
京相撲で名を挙げた弥三郎(のち、大関・湖東山、年寄・武隈)は、文政七年(一八二四)十月、江戸に出て武隈文蔵の門人となり長州藩のお抱え力士となる。弥三郎は「勇山岩右衛門」の名前で二段目に付けだされた。阿武松(おうのまつ)部屋に所属、文政十二年(一八二五)十月に入幕を果たした。このときの四股名は「小柳」で名前を春五郎としている。「小柳」は兄弟子の大関・阿武松から譲り受けたものである。
この年の番付表を見ると、小柳は東方前頭六枚目に付け出され、四股名の上には「長州」と書かれている。いまなら当然「江州」となるところだが、当時はお抱え大名の国名が書かれることになっていた。相撲好きで有名な長州藩(第十一代藩主・毛利斎元)のお抱え力士として、彼は江戸相撲に登場したのである。
翌文政十三年(一八三〇)三月二十三日に、両国回向院で第十一代将軍徳川家斉の上覧相撲があった。
五回の上覧相撲
家斉が将軍職の間だけで五回も上覧相撲が行われているので、将軍・家斉の相撲好きもかなりのものであったらしい。回向院は、明暦二年(一六五七)の江戸大火の死者を埋葬した無縁塚を起源とする浄土宗の寺院で、天明元年(一七八一)同寺院で始められた勧進相撲がのちの国技館大相撲へと発展してゆく。
上覧相撲については『相撲』(高杜利彦・二〇二二年に詳しい記述があるが、将軍臨席時の土俵のしつらえに関する部分を紹介しておこう。
「土俵の中央に幣束を七本立て、神酒・熨斗・供物の三方(さんぼう=神前に供物を備えるための用具)を飾りおき、土俵の上に筵を敷くとともに天地長久・風雨順治の祭事を行なった。行司の装束は素襖に侍烏帽子・木剣を帯していた。これらのことは、現在の土俵開きの出発となり神事であるような様相をした」江州神崎郡今田居村・小柳春五郎
寛政三年(一七九一)六月十一日の「相撲名前明細書」に、「江州神崎郡今田居村・小柳春五郎・三十三歳」と書かれた記録が残っている。小柳は前頭の有望力士として、家斉の見守る中で晴れの土俵に上がったのであった。
姫路藩がスカウト?小柳から手柄山へ
天保八年(一八三七)十月、長州藩から姫路藩にお抱えが替わった。姫路藩にスカウトされたのかも知れない。同時に彼は、「小柳」を改め、手柄山繁右衛門と名乗った。「手柄山」は姫路藩のお抱え力士のうちの出世頭が名乗る四股名であった。これらの略歴は、昭和三十四年十月に今代町・安村家を訪ねた相撲史研究家・大村孝吉さんの「湖東山、武隈文右衛門の略歴に就いて」にも記されている。
このような「武家抱え」の力士とそうでない力士のあいだには、経済的にも技術的にも、また故実格式の点でも大きな格差があった。相撲取で諸侯方の抱えになっている者はすべて帯刀している。抱えられていない者は浪人者で、平日は脇差だけを帯していたという。
いっぽう、参勤交代の国入りのときには力士を付き従わせるなど、藩の都合によっては抱え力士を休場させ、番付にも載せない場合もあった。
お抱え力士になると、扶持米が支給された。扶持米とは、江戸時代に下級武士に支給された月俸制の米穀で、一日五合を基準とし月一斗五升、年一石八斗が一人(いちにん)扶持とされ、実際には金銭に換算し支給されることもあった。ちなみに、江戸後期の力士で武隈の先輩格にあたる大関・雷電為右衛門は、松江藩のお抱え力士として四人扶持を給されていた。姫路藩抱えとなった手柄山(のちの湖東山)の扶持米がいかほどであったかは、残念ながその記録を見出せていない。
手柄山は、その後も好成績をつづけ、天保五年(一八三四)正月の場所では前頭二枚目にあって八勝一分けの星を残し優勝、十月の場所で関脇に昇進した。関脇を三場所つとめたのち、天保七年二月に最高位である東方大関に登り詰めた。三十九歳であった。天保十二年(一八四一)の番付表が残されているが、東の筆頭に大関・湖東山文右衛門の名がある。
このころの大関は、必ずしも取り組みの成績だけでは決まっていなかったらしい。お抱え大名の後押しや横槍で、しばしば番付編成が変えられることもあったし、実力はなくても無暗に身体が大きいとか、美男力士だということで大関に据えられる力士もあったという。しかし、彼の場合は、大相撲協会に伝えられている幕内通算成績が一二〇勝五二敗一九分(大関在位の成績は三十九勝十三敗)で、勝率は七割近くある。ただの看板力士でなかったことは明らかである。







