寄稿 中島 伸男
「今代」と「青山」について
「湖東山(武隈親方)」の足取りについて再点検をすすめていた令和五年二月二十五日。大関・湖東山の位牌を守る東近江市今代町の安村かずさん、そして安村家出身で八日市上之町に嫁がれた市原昌子さん(昭和十一年生まれ)がわざわざ私宅を訪ねて下さった。
市原昌子さんは「祖母・順さんから聞いたこと」としてつぎのようなお話をして下さった。
「安村を名乗る家は、もともと青山城(現・東近江市青山町)の武士だったそうです。けれども関ヶ原合戦のとき、水口城主とともに西軍について敗れ、住民は一家だけを武士身分として志賀氏を名乗らせ、ほかの者は今代(今田居)に移り住んだそうです。」
こうして思いがけず、青山町と今代町のつながりが出てきた。
『近江神崎郡志稿』上巻(昭和三年)第三編で「安村氏」についての記載がある。ただし、安村藤十郎なる人物が「慶長五年の関ヶ原戦に当たり、西軍の長束正家に属して伊勢の津城攻撃に参加し討死」云々の記録にとどまる。
いっぽう、『近江愛智郡志』で「青山」の項目を調べてみる。「背後の高台中に一砦阯あり、青山左近右衛門実貞、同左近允在住の地にして云々」との簡単な著述はあるものの、今田居(今代町)との関係を知り得る記事はない。同『近江愛智郡志』には「青山氏」についての項目(第八篇・武家志)もある。「青山に住し氏を称す小倉一族なり。青山左近亮勝重は佐々木六角氏に仕へて近習たり」などの記述がある。やはり、今田居村との関係を示す記述はない。
ただし、青山町と今代町は、愛知川を挟んでまさに向かい合わせの位置にある。
かつては愛知川をフンドシ姿で渡って行き来する間柄であり、明治初期まで両集落には姻戚関係も多くあっという。
そのような背景を考え合わせ、川副善平さんは、「大関・武隈は、若いころにわが家から今代の安村家に養子に行ったのではなかろうか」と推測されていた。
歴史と伝承は、そのほとんどが闇に包まれつつも、どこかでなにかのヒントを残している。そこが魅力でもある。
二つの戒名の共通点
令和五年三月、拙稿に目を通して頂いた法蔵寺ご住職・佐和明徳さんからつぎのようなお話を伺って驚いた。
佐和さんは二つの戒名について次のようにご指摘になった。
「二つの戒名に共通しているのは『譽』の漢字があることです。当山は浄土宗ですが、浄土宗では戒名にかならず『譽』の一字が入ります。戒名は五重相伝(宗義の秘奥を伝える儀式)を受けた方が授かるものです。武隈さんも生前、どこかの浄土宗の寺院で受戒しておられるに違いありません。」
「高譽勇山哲道信士」と「高譽勇山鉄道禅定門」。なるほど、そういう共通点があるのか。
さらにもう一つ共通することは、戒名「高誉」につづく二文字「勇山」である。「勇山」は、武隈(湖東山)が、江戸相撲二枚目に初めて付け出されたときの四股名である。
今代町・安村家と青山町・川副家に伝わる武隈の戒名に共通する紛れもない事実がある。一方でその関係を知ることができないもどかしさ。この空白を埋めることは将来的にも不可能であろう。
江戸末期に大関を務めた郷土の力士にもかかわらず、『近江神崎郡志稿』・『近江愛智郡志』の二書「人物志」では、武隈もしくは湖東山についての項目を見出すことができない。残念である。
竹森章著『京都・滋賀の相撲』(一九九六年・平成八年)には、白鹿背山東光寺(浄土宗・東近江市平尾町)の過去帳につぎの追記があると記されている。
「高誉勇山哲道信士 六月廿五日 武隈文右衛門今代勘六事 江戸ニテ死ス」
最後の四股名「湖東山」
この戒名は、安村家位牌の標記である。
既述、相撲史研究家・大村孝吉さんの「武隈文右衛門の略歴に就いて」には、青山・川副家についての記載はまったくなかった。しかし、戒名を「高誉勇山鐡山禪定門」としている。この戒名は、まさに青山・川副家につたわる位牌に記されているものではないか。
いくつかの謎はあるけれども、つぎのことは強調しておきたい。
江戸相撲末期に大関を務めた関取が、姫路藩お抱えを解かれた最後の段階で自己の郷里を偲び、「湖東山」を名乗ったことは紛れもない相撲史上の事実であるということを。
そして彼自身の最後の四股名として、今田居でもなく、また青山でもなく、この二つの地域を包含した大関「湖東山」を名乗ったことを。





