「核兵器を絶対使ってはならない」
【東近江】 広島市の原爆被爆体験証言者、瀧口秀隆さん(85)が20日、玉緒小学校(東近江市大森町)を訪れ、4~6年生の児童約100人に被爆当時の様子や戦後も続いた健康面の不安、家族を失った悲しみを語った。
瀧口さんは1945年(昭和20年)8月6日、4歳で爆心地から1・8キロの自宅で被爆。父は戦地にいて留守。家には、母親と10カ月の妹・弘子ちゃん、いとこのお嫁さんになる人がいた。
午前8時頃、庭には母と妹、瀧口さんがいた。瀧口さんがB29の爆音を聞いて、家に入って玄関の引き戸に手をかけた瞬間、ピカッと強烈な光を感じ、母親の呼ぶ声で意識を取り戻した。瀧口さんは左腕などに、母親も背中に大やけどを負った。
自宅が倒壊したため3日目になって、母親の実家のある旧松永町(現福山市)に移り、3人は親族宅に分かれて養生することになった。
妹は頭に軽いやけどをした程度で、被爆2日目に医師の診療で「このくらいのやけどでよかった」と言われた。しかし、母親は母乳が出ず、重湯(おもゆ)も満足になく、被爆の惨禍の衰弱から、母の姉の腕の中で8月22日に亡くなった。
母親は妹の死を知り、療養中で世話をできなかったこともあって号泣。「七五三やひな祭りをしてやれなかった」と、何十年たっても思い出したように涙を流した。
妹の写真は一枚もなく、面影を追えない。「妹が生まれたとき、フィルムはぜいたく品とされ写真を撮ってやることがなかった」と、声を詰まらせた。
母親はうつ伏せで療養し、高熱でうなされたり、祖母に背中をはい回るウジ虫をはしでつまんで取ってもらっていた。
やがて自分で歩けるまで元気になった母親だったが、43年後76歳で腎臓がんになり、左側の腎臓を摘出。無傷だったいとこのお嫁さんは44年後68歳で乳がんで亡くなった。
「被爆者は、熱線や爆風だけでなく、目に見えない放射線でいつまでも苦しめられる。核兵器を、広島、長崎以外で絶対使ってはならない」と強く訴えた。
瀧口さんの左腕の大やけどは、赤く白くまだらに盛り上がるケロイドとなり、とくに手首の皮膚は3倍の厚みになった。冬になると寒さで硬くなり、動かすとひび割れ、激痛が走った。
1957年(昭和32年)に原爆医療法の成立を受けて、腹部の皮膚を移植する形成外科手術を受け、痛みを感じることがなくなった。
「私たちが味わったのは被爆だけでなく、差別。平和は、他人の痛みに共感できる心をもつ人々が増えたときに訪れる」と語りかけた。
講演を聞いて6年生の男子児童は、「被爆の苦しさを感じた。次の世代に、戦争のおそろしさを伝えていきたい」と話していた。






