嘉田氏3選不出馬の心象風景(下)
◇全県
嘉田由紀子知事を誕生させた最大の立役者の一人は、びわ湖自然環境ネットワーク代表の寺川庄蔵氏(70)である。
同氏は平成十三年、国土交通省近畿地方整備局の諮問機関である淀川水系流域員会の住民代表に選ばれたが、京都精華大学教授の嘉田氏も委員の一人だった。
同委員会は十七年、河川整備計画に当たって原則的にダムはつくるべきでないとする中間報告を行った。
委員の間から「平成十八年の県知事選挙には、ダムに慎重な新しい知事を立てよう」との話が出た。そこで寺川氏は同年七月から嘉田氏に白羽の矢を立て、十八年三月に口説き落とす。
自民、民主、公明推薦の現職が巨大軍艦ならば、組織のない嘉田氏はさしずめ手漕(こ)ぎボートに過ぎなかった。
だが終盤から無党派層に支持が広がり、十八年七月、嘉田氏は劇的な勝利をおさめた。
初当選後の県議会では自民党の“嘉田攻撃”が凄まじかった。そこで寺川氏らは地域政党「対話の会」(代表・同氏)を結成し、十九年の県議選に候補者を擁立して、自民党を過半数割れに追い込む。
さらに寺川氏らは、滋賀から全国へ地域政党の輪を広げようと二十一年に草津市で“市民派ドットコム”を開催するが、一つの方向にまとめきれなかった
しかし、この動きは二十二年四月、橋下徹大阪府知事(当時)の「大阪維新の会」や河村たかし名古屋市長の「減税日本」などの設立へと繋がっていく。
「対話の会」のメンバーと嘉田氏の間に隙間風が吹き始めたのもちょうどこの頃だった。
「嘉田さんとの最初の約束は、『対話の会』と知事とが車の両輪でやっていくことだった。対話の会の幹事会に嘉田さんが出席して意見交換することになっていたが、欠席が目立つようになった」と寺川氏は振り返る。
「二十二年七月、嘉田さんは四十二万票を獲得して再選し、絶大な権力を握った。もう誰の意見も聞かなくなった」。寺川氏は同年九月、対話の会の臨時総会で代表を辞職する。
同氏は「嘉田県政の一期目はダムや新幹線栗東新駅の凍結・中止、造林公社問題の解決などで成果を上げた。二期目も卒原発の発信や、ダムに頼らない流域治水条例などは高く評価したい。逆に問題点は一昨年、小沢一郎さんと組んで日本未来の党を立ち上げたことだが、それなら原理原則を貫いて『みどりの風』などと組んだ方がよかった。また一期目後半から、対話の会の同志らを大切にしなくなり、女性市議らが離れていった」と語る。
「嘉田さんと知事選に立候補する三日月大造さんが共同代表の政策形成集団『チームしが』は、選挙と政策づくりを行うようだが、はたして地域政党まで見据えた理念が構築できるのか」とも。
「これは市民革命だ」。十八年七月二日、知事選勝利に沸く嘉田氏の選挙事務所で、支持者が大声で叫んだ。だが八年目を迎えても市民革命はいまだ成就しない。
「これからリベラルな地域政党が日本を変える時代が必ずきますよ」。寺川氏のチェ・ゲバラ並みのひげから、笑みがこぼれた。
(石川政実)








