多感な思春期に、学徒動員、空襲…
【東近江】 「核問題や排外主義の台頭など世の中がきな臭くなってきた今だからこそ、戦争体験者として証言を残しておきたい」と本紙に今夏、手記を寄せた東近江市聖徳町の池本由紀子さん(89)から、不戦の願いをあらためて聞いた。
池本さんは大阪府堺市出身。太平洋戦争の口火となった真珠湾攻撃当時(昭和16年12月8日)は尋常小学校6年生。その時の鮮明な記憶はないが、戦時色が濃くなるにつれて貧しくなる食卓や軍需工場の作業で明け暮れた学校生活、米軍機による空襲の中で多感な思春期を過ごした。
池本さんは開戦翌年の昭和17年、女学校に進学。ドイツ語の授業で褒められたのがうれしくて、教科書がぼろぼろになるまで励んだが、2年生から飛行機部品の選別作業で授業数が減り、3年生からは軍需工場への動員で授業はなくなった。
工場への道のりは、満員電車に揺られた後、最寄りの駅から徒歩で約1時間。学徒動員の歌を級友と口ずさみ、気持ちを鼓舞した。
工場の昼食は、大豆を混ぜたおにぎり1個と、菜っ葉のおひたしがひと口。休みの人のおにぎりが余れば、取り合いになったことも。
自宅の夕食は、大根を刻んだダイコン飯かコウリャン、水っぽい芋がゆなど、今だと貧しい食事だが、「当時は食べものがなく、いつも空腹だったので、何でもおいしかった」と振り返る。
戦争末期から始まった空襲では、銃後でも死にさらされている恐怖に震えた。夜中にサイレンが鳴り、家族と防空壕へ急いだ。米軍機から焼夷弾が投下され、夜空は大火災で真っ赤に染まった。堺市の中心地も焦土となり、家を焼かれて涙をぼろぼろこぼす人を多く見た。
戦後すぐ、難波や梅田へ行った。あこがれの街並みはどこをみてもガレキばかりで、「敗戦の惨めさをひしひしと感じた」。
一方で平和のありがたさも味わった。心斎橋でほおばった豚まんのおいしさや、梅田で父からコートの古着を買ってもらったうれしさが今も忘れられない。
池本さんは当時を振り返り、「戦争は絶対に2度としてはいけない。平和ほど大切なものはない。今の人には、自分さえよければいいという利己的になるのでなく、互いに労わる輪を広げることで、平和が続くように努力してほしい」と願った。
(高山周治)







