県平和祈念館の企画展
【東近江】 東近江市下中野町の県平和祈念館は、太平洋戦争末期、列車を狙った機銃掃射で大勢の人々が犠牲になった守山空襲を生存者の証言や資料をもとに紹介する企画展を開催している。5月31日まで。
守山空襲は、1945年(昭和20)7月30日午後3時半頃~同4時頃、米軍戦闘機4機が守山駅発車直後の列車に機銃掃射を浴びせ、民間人や兵士ら死者11人・負傷者22人以上が犠牲となったもの。
証言者の一人、栗太農学校3年だった小島秀治郎さん(守山市)は、空襲警報が解除され運転再開した列車に草津駅から友人2人と乗った。頭上の空にはすでに米軍機が「ぐるぐる回っていた」といい、「そのまま帰るかなぁと思っていたら、汽車にひっついて来てた」。
自宅最寄りの守山駅で下車し、駅から20メートルほど歩いたとき、「バリバリバリー」という機銃掃射の「すごい音」が聞こえた。恐怖で体がガチガチになって動けず電柱に隠れていると、米軍機が低空で突っ込んできて、ニカッと笑うパイロットの顔が見えた。
同学校1年だった重野重彦さん(近江八幡市)は、逃げ込んだ駅南のレンガ工場の大窯から、機関車に弾が大きな音をたてて弾け飛ぶのを見た。同級生の伴作兵衛さん(同)はホーム地下道へ避難し、明かり取りの穴から弾が落下するのを見ながら、「皆が寄って抱き合うて、ぎっしりやった」という。
戦闘機の機関砲は強力で、親指大の機銃弾が家屋の屋根を容易に突き破る。大津高等女学校生で駅近くに住んでいた今井美代子さんは、米軍機が去った後、防空壕から自宅に戻ると、座敷に逃げ込んだ負傷兵がいて血の海。押し入れの中には、列車の女性客が隠れていた。かまどの前は、背中を撃たれた若い女性がおり、すでに息絶えていた。「ほんとに地獄そのもの」と振り返る。
空襲後、前掲の小島さんは、一緒に列車に乗っていた友人2人の安否確認のため、母親に収容先の病院へ見に行ってもらった。帰ってきた母親からは、「死んでらったわ。行かんとかい。もう見たらあかん。顔あらへんかったわ」と聞き、震えた。
来館した畑清さん(70)=東近江市沖野4=は、「明日という日が保障されているのが平和であり、恵まれていることを感じた。なるべく多くの人が来館して、滋賀で空襲があったことを知ってほしい」と話していた。
無料。月火休館(祝日の場合は開館)。問い合わせは同館(TEL0749―46―0300)。








