泰平の世のため奔走した家康を支えた近江 滋賀県内で徳川家康の足跡を辿る
古戦場跡・城跡・御殿跡から
人柄が偲ばれるエピソードまで
【全県】 8日から放映開始予定のNHK大河ドラマ「どうする家康」に関連し、徳川家康への関心がにわかに高まっている。織田信長、豊臣秀吉に続き、戦国時代に活躍した人物として知られているが、近江に居住した信長・秀吉に比べると県内での家康の歴史は印象が弱い。しかし、家康につながる史跡や文化財、逸話は各地に今も受け継がれており、そこからは泰平の世を始める家康が近江を重要な地域としてとらえていたことがうかがえる。(羽原仁志)
徳川家康と近江
徳川家康は1543年、三河国(現在の愛知県)の岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた。幼少期を織田家や今川家で人質として過ごす。1560年の「桶狭間の戦」後、独立して織田信長と同盟を結び、東海地方の大名として勢力を広げた。
家康が近江で活躍した例としては、1570年、湖北地域を治めていた浅井家・北陸地方の朝倉家の連合軍と信長・家康の連合軍が戦った「姉川の合戦」が挙げられる。
家康は激戦の末、朝倉軍を退けることに成功、その勢いが信長の勝利につながったとされる。現在、家康が戦で布陣したとされる長浜市東上坂町には案内板が設けられ、合戦にまつわるエピソードなどが紹介されている。
1582年、「本能寺の変」で信長が討たれたことを知った家康は、当時いた堺(大阪府)からすぐに三河へ戻ろうとする。しかし、主な街道などは信長を討った明智光秀軍がすでに押さえており、信長と同盟関係にあった家康も見つかれば命の保証はなかった。そこで、家康は鈴鹿山脈の険しい山道を越える過酷なルートを選択する。俗に「家康の伊賀越え」と呼ばれる出来事で、この時、家康は小川城(甲賀市信楽町小川)で一泊したとされる。
家康は秀吉政権下でも勢力を拡大。秀吉没後の1600年には「関ヶ原の戦い」で石田三成ら西軍を破り、天下人となった。その後、戦国時代の後始末と250年以上続く江戸幕藩体制の基礎づくりを進め、1616年、75歳で没した。
天下普請は近江から
県内で家康の命により建てられた城郭の一つに、現在の大津市本丸町一帯にあった膳所城が挙げられる。
家康は「関ヶ原の戦い」の翌年にあたる1601年、現在の京阪びわ湖浜大津駅付近にそれまであったとされる大津城を廃し、豊臣家など西国の大名からの東海道の新たな防衛拠点と京都にある御所の護衛を主眼にした膳所城の築城を家臣らに命じた。
江戸時代、幕府が全国の諸大名に命じて道路や河川といったインフラの整備や城郭建築・修繕を行わせた事業を「天下普請(てんかぶしん)」と呼ぶが、膳所城は天下普請第一号だったとする説もある。
膳所城は、本丸や二の丸が琵琶湖に浮かぶような特徴的な水城の構造をしていたとされ、明治時代の廃城令で解体されるまで存在した。
現在、本丸跡地は「膳所城跡公園」として活用されているほか、本丸大手門が近くの膳所神社(大津市膳所1)表門として現存し、国の重要文化財に指定されているなど、一部の遺構はかつての城下町に移築されている。
また、彦根市金亀町の彦根城は、近江国東北部を所領した井伊家と家康が相談の上、現在の場所に建てられた。
築城は当初、天下普請で行われ、数期に渡った工事は完成まで約20年かかったとされる。併せて、以前は城の北側を流れていた芹川を南側に付け替え、武士や町人が暮らす城下町の整備も進められた。後に廃城令による解体を免れた彦根城には国宝の天守をはじめ、数々の建築や文化財が残され、現代に当時の様子を伝えている。
さらに、県や彦根市では、現代に残る彦根城と城下町を「17~19世紀の平和な時代の政治拠点」として後世に伝えるべき文化財とし、国際連合教育科学機関(ユネスコ)の世界遺産リスト登録につなげるための協議を国の文化庁と行っており、現在、2025年の登録を目標に、推薦書素案の作成段階まで進んでいる。
家康が往来した近江路
「関ヶ原の戦い」で勝利した家康は、豊臣家と決着をつける「大坂の陣」に向け、江戸と大坂を何度も行き来したとされる。その際、各地に休憩や宿泊するための御殿・御茶屋と呼ばれる施設を建てさせ、家康の子の秀忠、孫の家光もそれを利用した。
古くから交通の要所だった県内にも、柏原御茶屋御殿(米原市柏原)、伊庭御殿(東近江市能登川町)、永原御殿(野洲市永原)、水口御殿(甲賀市水口町本丸)の4か所があり、このうち、水口御殿以外には家康が宿泊・休憩で複数回活用したとされる。また、伊庭御殿跡と永原御殿跡は国指定史跡となっている。
御殿は、本丸や二の丸の他、様々な建物が建てられ、作庭の匠として知られる小堀遠州による庭が設けられていたとされるなど、かなり大がかりな構造をしていた。
建物など遺構は現存していないが、伊庭御殿では御殿跡地を地域住民らと整備、徳川家の家紋をあしらったのぼりを立ててPRしている(左上写真参照)。同市埋蔵文化財センターでは、「当時は御殿の間近まで内湖が迫り、家康も風光明媚な景色を見ながら旅の疲れを癒やしたのかもしれません。地域にこういった史跡があることを知ってもらえれば」と期待している。
家康にまつわる逸話
旧東海道沿いの栗東市六地蔵地域は草津宿と石部宿の中間に位置する「間(あい)の宿」として旅人らが行きかった。同地域にはかつて製薬を生業とし、旅人らに「和中散」という道中薬を販売していた国指定重要文化財の「旧和中散本舗(大角家住宅)」の建物が今も残されている。この「和中散」という名前は、徳川家康が名づけたとされる。
建物の管理者によると「東海道を移動していた家康が急な腹痛に襲われた際、この薬を献じたところたちどころに回復し、感動した家康から薬の名前を贈られた」という。
現在、製薬業は行っていないが、江戸時代前期に建てられたとされる建物には木製の歯車が付いた製薬機や代々受け継いできた看板などが昔のままの姿で保存されている。
「旧和中散本舗」は普段は非公開。見学には1週間以上前に(TEL077―552―0971)への予約が必要。
また、草津市の銘菓「うばがもち」も、家康にまつわるエピソードがある。製造、販売する「うばがもちや」(本店・草津市大路2)によると「関ヶ原の戦いで勝利した家康が大坂の陣におもむいた際、当時84歳で健在だった家康の乳母が餅を献じた。家康は乳母の長寿を喜び、その誠実な生き方を称え、大坂の陣勝利の凱旋後もかごをこの地で止めた」といい、以来、「公卿や諸大名は必ずここで餅を求めた」とされる。
「うばがもち」の販売場所やインターネットでの購入は同店ホームページ(https://www.ubagamochiya.jp/)を参照すること。問い合わせは同本店(TEL077―566―2580)へ。
家康ゆかりの人物
家康の歴史を語る上では欠かせない県に縁の深い主な人物を順不同で紹介する。
●甲良豊後守宗廣(1574~16469)。甲良町法養寺出身。優秀な技能者集団として知られていた“甲良大工”の棟梁。家康の没後、その菩提を弔う日光東照宮(栃木県)建設で大棟梁として全体の指揮を執った。日光東照宮は、1999年に「日光の社寺」の一つとして世界文化遺産に登録されている。室町時代の大名・佐々木道誉、安土桃山時代の武士で築城の名手とも称される藤堂高虎に並ぶ「甲良三大偉人」の一人に数えられる。同町では、甲良宗廣の縁で日光東照宮との交流を続けており、同町役場前に設置された建築用の差し金を手にした甲良宗廣像と同じものが日光東照宮の境内にも建てられている。
●石田三成(1560~1600)。長浜市石田町出身の武将・政治家。豊臣秀吉に才覚を見出され、数々の政策を打ち出して秀吉の勢力拡大に貢献した。秀吉の没後、家康と対立が深まり、関ヶ原で天下を二分する合戦に臨むことになる。
●井伊直政(1561~1602)。現在の静岡県出身の武将。「関ヶ原の戦い」後、彦根藩初代藩主となる。家康が若い頃から家臣として仕え、篤く信頼されていた。直政自身は「関ヶ原の戦い」で受けた傷が元で早逝するが、以降、井伊家は江戸幕府の中でも徳川家に近い譜代大名の筆頭として深く関わっていく。
●織田信長(1534~1582)。現在の愛知県出身の武将。家康と同盟を結ぶ。信長が安土城に家康を招いた際、明智光秀の用意したもてなしの料理が意に添わず、光秀を厳しく叱責したことが後の本能寺の変の一因になったとする説もある。
● 豊臣秀吉(1537(諸説あり)~1598)。信長の家臣。少しずつ頭角を現し、信長没後は日本統一に挑む。やがて家康との間に摩擦が生じ、衝突することになる。












